2010年02月20日

真・行・草のお話

 北ドイツ、今年の二月は、如月の意味する「草木が更生すること」とはほど遠く、毎日が雪、また雪の日々でした。
 例年になくやはり寒い冬の日本、関東も何度かの雪に見舞われたようですが、梅の便りもちらほら、馥郁とした甘い香りに満ちた早春の訪れもそろそろでしょう。

 ドイツでは、自宅に面した歩道の雪かきは、各家の仕事で、雪かきを怠ったことで歩行者が転倒した場合には、その家の住人の責任となり、賠償しなければならない決まりになっています。それ故、こちらに戻ってからの私の日課に、日に二回の雪かきが加わりました。
日ごろ、運動不足の私としては、体操のつもりで毎日の雪かきをしておりますが、連日の事となりますと、いささか辛い思いもして参ります。幸い、軽く乾いた雪で、まるで焼塩のようですので、こまめに箒を用いての作業は、掃き進める箒目が、うまく、リズミカルに行けば、きれいに揃って、角地に建つ我が家の二面の歩道が、頭を同じくした連続の砂紋のようになり、私は、たった一人で、その出来ばえに自己満足致します。

私に取りましては、たかが、雪かき、されど雪かき・・・砂紋などと、大仰な物言いですが、単調な作業に密かな喜びの工夫も、私の中の日本人の血の成せる業かもしれません・・・笑。

 砂紋とは、枯山水の白砂の箒目の事ですが、枯山水の庭で、「水」を意味しているそうです。禅寺で、瞑想や修行の場でもある枯山水、自然の深山幽谷をうつした世界での思索は、修行には不可欠のものなのでしょう。

 さて、前置きが長くなりましたが、前々回、ブルーノ・タウトさんのお話を少しさせて頂きましたが、タウトさんお好みの「草」の花籠のお話です。

 書道で云うところの楷書、行書、草書、華道、茶道その他、能などの芸道、日本建築など、日本文化のあらゆる場面に、「真行草」の概念が登場します。

竹工芸に、「真行草」の概念を始めて導入したのは、琅玕齋ですが、竹のおもむきを直截に表すことのできる「草」の籠への思いは、際立っていたようです。
  
注…真の籠 形の整然としたもので、編み方も正確かつ美なるものであり、一見これが竹かと思えるほど精巧なもの。
  行の籠 真よりは荒くともよく、色彩も時代色とか、白錆があるが、あくまで正確さを保つ。
  草の籠 もう一つ格を外したもの。不規則な編み目、形をゆがめてもよしとする。


 芸術家のひとりびとりが、その創作の過程で、あらゆる「ものごと」から、霊感の如きひらめきを受ける事はよく起ることですが、祖父の創作生活の中でも、度々そのようなことはあったようです。
 
 その一例として如実な作品に、花籃「鳴門」1930年頃作があります。これは、真竹の白錆を材とする、祖父が考案した「つぶし」という技法による作品ですが、幅広の真竹を半分に割り、それを木槌で叩き、平らにしたものを、一気呵成に組上げて行く、大変にダイナミックな作品で、草の典型的な仕事といえましょう。祖父は、1929年(昭4)、青龍社第1回展に出品された画家川端龍子の二曲一双屏風『鳴門』から想を得たといわれております。現在、とあるお寺に収蔵されておりますが、いまだ、分野の違う二つの作品が、並べて展示されたことはありませんが、私は、いつの日かそれがかなうことを心の底で願っております。

注…白錆竹 青竹を油抜きして、天日干しして、乳白色にしたもの。時を経るに従い美しい飴色に変化して、大変に美しい。
 
 また、祖父の「草」に対する思い入れを表す肉声が文章になって残っております。

ある日、祖父が、郷里栃木の太平山に清遊した時のことです。今もありますが、松乃屋という茶店の軒先から、鮮やかな緑に見入っていた時のことです。(太平山は、「陸の松島」と称され、その山腹からの眺望は素晴らしく、祖父青年時代には、尺八を携え、よく登ったそうで、後年念願の山荘を建て、戦時中は疎開生活をおくった所でもあります。)
 「・・・ふと崖下をみた、その時、崩れるような崖の中腹にだんご籠がひっかかっている、・・・よくみると、そのだんご籠の中から一本の豆づるが生々と伸び育っている、その秀ひでた風情自然そのままの姿相が私の芸魂にどんどん迫るのでした、あれだ!竹の籠が曲がっていようと、真直ぐであろうと、調和があるところに常に美はある、・・」

注…だんご籠 太平山では名物の団子を籠に入れて売っていた。

 物づくりの端くれの私にも、その時の祖父の、心躍るような興奮と同時に矛盾なく押し寄せる確信を得た精神の静寂が、わかるような気がいたします。

no6.gif
 書の世界では、王義之が、古代の篆書、隷書に対して、真(楷書)、行書、草書の三書体を確立したといわれております。日本に中国から漢字がもたらされ、その漢字からひらがなが作られたということが、一般に言われております。中国においては、「真」に最も正当な格式が与えられているのに対して、日本における外来文化の受容のあり方は、特異な様相を呈し、「行」、或いは、「草」の美しさを尊ぶ傾向が現れております。茶道の世界で、唐物道具から和物道具への流れがありますが、現在の竹工芸は、やはり、主に室町時代に煎茶とともに伝来した唐物籠に端を発します。時代を経るにしたがって、それぞれの作家の創意工夫による作品が作られるようになっていったわけです。

 茶道の世界には、抹茶と煎茶の双色があり、その両者ともに、花入れとして竹器を用いますが、煎茶道では、竹筒花入れは、あまり用いられず、籠花入が愛用されております。
「見立て」という事が、抹茶の世界ではよくありますが、竹器では、利休などの時代に、魚籠や若菜籠などの民具の形のよいものを茶席に用いたことなどが、その初期の例になります。
   
  私は、「見立て」とそれにつながる「やつし」という日本独特の方法に、「草」の世界を理解する道があるように感じます。ただ、見立てにしても、やつしにしても、あくまでも、物を用いる、或いは鑑賞する側の意識であって、創作する作家の側からの探求という事が、いまだ成されていないのかもしれません。祖父が、だんご籠を見た瞬間の「感覚のほとばしり」について、今後も考察して行きたいと思っております。

注…やつし みすぼらしいようにする。目立たぬように姿を変える。不完全な状態の美をやつしの美という。歌舞伎の和事の一種。

 建築家であったブルーノ・タウト氏は、祖父の作品を「モダン」と称されたそうですが、日本滞在中の3年足らずの間に十数冊の日本文化に関する著作を残されています。「日本美の再発見」に象徴されるように、その論調は、単なる異国人の日本趣味のような生易しいものではなく、透徹した美意識に裏付けられたものだと思います。祖父が、高崎達磨寺の洗心亭を訪れた時、差し上げた「おしぼりおき」を「香炉おき」に見立てられ、煮しめ皿を菓子器として、供されたことなどは、茶人のふるまいと言えるのではないでしょうか?

 取り立てて、茶道の稽古をされていなかった筈のタウトさんが、短期間に茶の湯の奥義のようなものを会得されたことは、驚嘆に値することかもしれませんし、日本美を見抜いた芸術家、建築家としては、当然だったと言えるのかもしれません。

 とはいえ、難しい事はさておいて、私たち、現代の日本人の生活には、昔風に言うなら、「異国」のものがあふれております。今ほど、異文化がむき出しで氾濫していた時代は過去の日本の歴史にはなかったのではないでしょうか? しかし、いにしえの先人が、異国文化を手に入れ、咀嚼し、新たな日本文化を作り上げていった方法は、意識するとしないとに関わらず、私たちの根底にあるはずだと、私には思えてなりません。
 「真行草」などと堅苦しく感じられる言葉ですが、私は、自分なりに、普段の生活の中でこれからも色々な事を考え、感じて行きたいと思っております。

 日本の風土とは異なるドイツの地にあって、年齢を重ねたからなのか、最近は、私の中の日本人の血を感じることが、多くなってきた様に思います。しかし、異国にも四季があり、そこに住む人々は、私たちと同じ人間です。それぞれの持ち味を理解し、時に補い合い、地球という一つの星に共に生きる同胞として、自国の文化をよく知り、異国の文化を正しく理解して行くことが、これからの時代の私たちの成すべき課題の一つなのかもしれません。

 二月も半ばを過ぎ、今日は、ほんとうに久しぶりの晴れ間になりました。しばらく続いた雪の日々も、一休み、時は確実に春へ向かって過ぎて行きます。

 遠く、裸ん坊の木々の梢のどこかで、かすかに鳥のさえずりが聞こえます。

※琅かん齋の真行草に関しては、詳しい研究論文として、下記を参照されたい。

 飯塚琅かん齋に見る近代竹工芸の芸術性−「三態の概念」の自覚と造形表現に注目して
 鈴木さとみ著 [PDFファイル]


posted by mari at 01:13 | 2010年