2010年03月15日

見ることの旅

 ぴーん、と音がしそうに張りつめていた空気が、少しずつ、少しずつ、緩んで行きます。時折、すっきりと雲が割れ、射し込む光の密度を感じます、まるで大気の緩みと反比例していくように・・・
 遠く、かすかに聞こえていた小鳥のさえずりは、日々重なり合い、まだ裸ん坊の黒々とした枝から枝の、あちらへ、こちらへ・・・

 春の訪れは、しかし、三寒四温、行きつ戻りつですね。

 目に耳に肌に、私たち日本人もヨーロッパ人も、身体全体で春を待ちわびています。

 ドイツでは、復活祭の頃から、春到来を思い、うさぎの可愛らしい人形、色とりどりの卵などの飾りつけを始めますが、その根底には、キリスト教という宗教があることは皆さまもご存じでしょう。
 しかし、日本人はどちらかというと、五感を通して、自然を味わい、より強い身体感覚で春を待ちわびているように、私は感じます。それだけ複雑で、多種多様な自然に恵まれた風土であるという事が、一つの大きな理由なのかもしれません。

 日本は、上巳の節句(桃の節句)も過ぎ、ゆったりとまあるい空気、菜の花色、桃色、萌黄、緋色、若竹色・・・雛の衣の重ねの微妙な色具合・・・日本の色には、実に趣の深い名前がつけられております。
私の好きな名前は、「天色」(あまいろ)という名の水色ですが、試みに竹に纏わるものを並べてみますと、青竹色、老竹色、煤竹色、藤煤竹色、銀煤竹色・・などなど、特に煤竹に何種もの名前があるのはおもしろいことです。

 ところで、香道では、「香を聞く」というそうですが、香りをかぐことを、「聞く」という言葉で表す日本文化には、不思議な重層性があるような気が致します。

 さて、琅玕齋の作品に「不聞」という銘の作品があるのですが、この一週間ほどの、私の心の中で起きていた出来事のお話です。

「不聞」は、1925年頃の作、祖父三十代半ば頃のもので、白錆、四つ目の飛ばし編で、細い耳がついた草の籠です。時代を経て、白錆が飴色に変わり、たいへん味わいが出ています。現在、この作品は栃木県立美術館に収蔵されております。

 琅玕齋の作品には、当時の他の竹芸家と違って、趣のある銘がついた作品が数多くあります。ちょうど茶道具に古より、色々な銘がつけられたことに相通ずるところがありますが、茶道具では形に由る以上に文学的な側面に由る例(和歌からの引用など)が割合に多いようですが、琅かん齋の作品には、形態やイメージによる「作品の『香りを聞く』」ともいえる要素がより強いように、私には思われます。

私は、いつも祖父の作品を、「旅する」ような想いで、見つめておりますが、それは、父とは違い、私が2歳の時に亡くなった祖父の記憶が、無いに等しいせいかもしれません。
(展覧会などで絵画や彫刻作品などを、「旅する」時も、「見る」という行為のうちに《たとえ、ガラスケースで隔絶されていようと》「触れる」「聞く」などの感覚を総動員して、作者の思いを抱くように鑑賞するのが常ですが、やはり、血のつながった祖父であるが故、その欲求が強まるのかもしれません。そして、何本もの私の旅の道筋の行先は、どうやら「日本」のようなのです。)

「不聞」への私の旅は、和魂漢才への旅でもありました。

イ. 不聞とは、読んで字の如く、「聞かず、聞かざる」という意味ですが、その意味のみに重点を置いて、調べていくと、儒教四書の一つ、「中庸」の教えの中の、「不睹不聞」(見ざる聞かざる)の含まれる一節が目に入りました。その要旨は「人は、誰にも見聞きされない独りの場での鍛錬が大切である。」という理(ことわり)として解釈できます。

ロ. また、狂言「不聞座頭」では、留守居の耳の不自由な太郎冠者と盲目の菊都(きくい)が、それぞれの弱点をなぶりあうという演目。

ハ. いちばん、一般的な例としては、日光東照宮などでよく知られた三猿「見猿・不聞猿・不言猿」。(因みに「三猿」の起源は古代エジプトにあるそうです。)

ニ. そして、最後に私は、名物茶入の「不聞猿」(きかざる)に行き着きました。
私はこの茶入の実物を残念ながら目にした事はなく、写真だけですが、細い笹葉の如き耳が着き、上部のくびれた瓢形で、ハの不聞猿の姿に似ているところから銘がついたそうです。(瀬戸後窯、宗伯窯。香雪美術館蔵)

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 日頃、言葉に形に、こと「日本」となると、夢中になってしまう私の性格の一端ですが、琅玕齋の作品銘に関しては、どうやら、その形態から、ニの線がいちばん濃厚なように思います。茶道具の銘は、所有者が後に命名する例が多いそうですが、茶入「不聞猿」は、作者宗伯が三猿の不聞猿に見立てての命名との由来があるそうです。ただ、宗伯に関しては記録があまり残っていないそうで、詳しい事は不明です。

 また、琅玕齋も、自作の銘について記録を残しておりませんので、あくまで、孫娘の独り言、主観ということになってしまいますが、宗伯作の茶入による「二重の見立て」が行われたことになるのかもしれません?

 祖父は、幼少より漢学を学び、また、青年期に画家を志し、後年は竹工芸を「芸術の域にまで高めよう」と決意、そのための修養として、華道、茶道、謡などをはじめ、日本文化の粋を学びました。そして、それ故、前記のイ、ロ、ハ、ニが、浮上してきたわけです。

 ただ、ここで私が述べたいのは、「銘の出所の追跡劇」という事よりも、祖父に限らず、日本人である作者たちの「心延え(こころばえ)」の事なのです。
学者でも研究者でもない私は、私自身の中に流れる血の案内のみによって、これまで、「美の彷徨」をしてまいりました。それ故、感覚だけを裏づけにした未熟な「思い」でしかないかもしれません。

 見るということの奥深さ、まだ足りない「目の鍛え」を日々感じております。

 古より、現代まで,絵画、彫刻、工芸、そして文学においても、日本の芸術を支えてきた数多くの芸術家たち,その末席に祖父琅玕齋、そして父小玕齋があります。

 次回は、私にとって、いちばん身近な芸術家、父小玕齋の「心延え」について、昨年11月の講演会での内容を中心にお話したいと思います。

posted by mari at 01:43 | 2010年