北ドイツも、漸く春の光と空気が満ち満ちて参りました。我が家の庭では、ミラベル(杏やプラムに似た青い実をつける)の白い花が咲き競っております。
私にとっては、「桜もどき」のミラベルですが、こちらではあくまでも「歓喜の春を高らかに謳い続ける花」なのです。
私は、数年前まで、ドイツ在住ながら、幸運にも毎年続けて何回かの「まことの桜」を目にする機会に恵まれました。
父が逝って、翌々年の春、花が見えるようになっている自分に気づいたのは、東京、神田川沿いの桜を前にした時でした。
まるみを帯び、湿度を含んで・・やわらかな日本の春の空気は、父の死という重圧から私を守るかのように包み、まるで「許された証」の如く、視線の向こうには、やさしい薄くれないの儚げな連なりが、幾重にも幾重にも続いておりました。
あはれか、花か・・・私には、桜が、あはれそのものであるように感ぜられてなりません。
花が我れか、我れが花か・・・
『世の中を 思へばなべて 散る花の わが身をさても いずちかもせむ 西行』
皆さまのおひとりおひとりが、それぞれの桜をご覧になっていらっしゃることでしょう。

さて、作家にとっては、作品がその時の自分を語り、鑑賞者は、時に、作品の「銘」に作家の心延えをはかることができるかもしれません。
父小玕齋が身罷りましたのは、2004年(平成16年)でしたが、死の二年前の第37回人間国宝新作展に出品した花籃「千引の石」(ちびきのいわ)のお話です。
この作品銘は、父の作品の中で、唯一文学を下敷きにしたもので、出典は「古事記 黄泉の国」の段にあります。
黄泉の国へは黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)を通らなければなりませんが、そこにはこの世とあの世の境に、千人の力を持ってしてやっと動くほどの大岩があると云われており、それを称して「千引の石」というそうです。
父は、この花籃「千引の石」をこの世とあの世との己が「結界」と見立てたのかもしれません。
85歳で亡くなりました父の晩年は、病いと孤独との闘いであったと言っても過言ではありません。2000年(平成12年)、皮肉にも共に癌を患い、闘病にあった妻(私の母)に先立たれたのは、何よりも父にとっては打撃となり、その後の二年は創作の意欲を失っておりました。家人もなく、一人娘である私は日独往復の中、限られた期間しか傍に居られません。
「芸術家は孤独なもの」と常々自戒しておりました父でしたが、母を亡くしてから己の死までの四年間は、娘にはあからさまに語らずとも、筆舌に尽くしがたいものがあったであろうと偲ばれます。そして、父自身も癌を抱えながらの日々、いっときは、私の元、ドイツ移住をも考えましたが、日本人である竹工芸家の宿命として、日本の風土に留まる事を改めて決意し、させた作品が「千引の石」という事もできるかと思います。
銘「千引の石」は、「情」(じょう)の滾(たぎ)った銘でもあったわけです。
彫刻家で詩人の高村光太郎は、
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光太郎さんの美術学校卒業制作に、「獅子吼」(ししく)という作品がございます。これは、若き文学青年でもあった光太郎さんが、その思いの発露として、還俗せんとする僧侶を作品化したといわれております。この頃、他に泉鏡花の影響下の作品などもあったそうです。しかし、後年、「文学的になることで彫刻を病ましめる」、「彫刻を護るために詩を書く」というような事を述べ、造形の純粋を説いておられます。
(随筆「自分と詩との関係」高村光太郎著参照)
父は、工芸、とりわけ竹工芸は、「具象ではなくあくまでも抽象の世界である宿命を持つ」と申しておりました。それ故、具象彫刻家である光太郎さんのお考えとは、別の意味も含め、その作品群には、作品の用途、形態のイメージによる銘ばかりをつける事を常としておりました。
つまり、銘の持つイメージの内に作品の玲瓏さが失われる事を避けたと言い換えることも出来るかと思います。
日本の工芸作品の多くは、桐や杉箱などに収められ、「箱書き」として、作家名、落款、そして、銘を墨書いたします。作品は、箱書きをもって完成する、ということができるでしょう。箱書きの一字一句に、その作品のすべてが集約されているわけです。
従って、「千引の石」の箱書きの時の父の胸中には、復帰第一作を完成できた安堵感と共に、父の人生初めての「おもむきの異なる銘」への矛盾のような、複雑な思いが去来していたであろうと、私は感じております。
病や、身内の死というものが、どれだけ人に打撃を与え、また、人間である芸術家の心の奥底に数々の苦悩や葛藤の物語があるかということを、私は身近に「千引の石」を見るたびに思わずにはいられません。
高村光太郎という芸術家の人生においても、妻智恵子の存在は深い影を落としました。また、思想上の問題もあって、晩年を岩手県稗貫郡太田村の山小屋での独居自炊生活もありました。そのような例は、哲学者西田幾多郎における、妻子の死など、数々の例があることと思います。しかし、創作の過程で、作家はあらゆる苦悩を超克していかねばならないのでしょう。
(詩集「智恵子抄、続智恵子抄」高村光太郎著、随筆「わが子の死」西田幾多郎著参照)
苦悩あってこその「美」であり、「哲」であるのかもしれません。
「あはれ」いう言葉は、嘆賞、親愛、同情そして悲哀など、しみじみとした感動の時に発する「あぁ」という声を語源としているそうです。人間誰しもが抱える「あはれ」、日本人の私にとっての「あはれ」は、花であり、秋草であり、風であり、数限りない風物や出来事へ、「うつしみの我」が行きつ戻りつ投影されていることをいうような気がします。
「あはれ」は「情」に発する言葉でありますが、人間、そして万物の根底にある「無常」への入り口に、「あはれ」も位置しているという事が言えるのかもしれません。
心の中に、はらはらと花吹雪が見えます・・・
季節は、とどまることなく、緑あざやかな時へ・・・そろそろ私の帰国が近づいて参りました。
次回は、「無常」のお話は、ひとまず秋まで置いて、新緑の候に相応しく、竹工芸の世界の若き人々たちのお話などできれば、と思っております。
「智恵子抄 高村光太郎と智恵子 その愛」展
2010.4.29〜7.11
於 菊池寛実記念 智美術館(www.musee-tomo.or.jp)