2010年10月25日

熱中症

 10月も末、ようやく秋らしい毎日になって参りましたね。

 金木犀の香りの短い命もとうに終り、やっと錦繍の便りも聞かれるようになりました。今年は、どうやら二週間以上も季節の動きが遅れているのか、木々も戸惑っていることでしょう? 人の思いも酷暑から、秋へ、なめらかに気持ちを移すことができず、気温と光と心とが、何かちぐはぐなような・・・いつもなら、一年ぶりの日本の秋、私は、心を秋の空気に投げ入れ、思いを遊ばせ、言葉を選ぶ喜びを覚えるところなのですが、なかなかこの随筆に取り掛かる気持ちになれず、帰国後もう二カ月近くたってしまいました。

 とはいえ、9月から10月にかけての出来事を、遅ればせながら、お知らせ致したいと思います。
 
 今夏の日本の暑さ、聞き及んではおりましたが、9月2日、成田空港に降り立った私には、いきなり北ドイツとは20℃以上の気温差が、まるで、空気が何トンもの重さで押し寄せてくるような、空恐ろしい感じが致しました。

 本年、9月4日は、父小玕齋七回忌にあたり、今秋は、例年よりやや早い帰国でしたが、父亡き後の満6年を、読経と共に墓前で深く思うには、いささか過酷な強い陽射しで、目眩を起こしかねない息苦しさでした。

 熱中症という言葉が、これだけ巷に溢れた夏も珍しいですが、外気温と湿度の成せる、あまり見舞われたくはない病というか、症状でございますね?

 さて、幸い、私はその熱中症で寝込むような事態にはならずに済みましたが、実は、「別の熱中症???」に見舞われてしまったのです。
そして、できる事なら、この熱中症には、たくさんの方々に、患って頂きたいものと、心密かに願っております・・・

 9月15日正午、私と、父小玕齋のお弟子の大木淑恵さんは、新潟駅に降り立ちました。予想に反し、新潟の気温は高く、29℃、越後の秋とはいささか言い難い暑さでした。

 向かうは、敦井美術館・・・

 展覧会情報でもお知らせ致しましたが、9月27日までが会期でした「近代の水墨画展」には、琅玕齋作、花籃「魚の舞」、「虫の音」、「蝉しぐれ」、「むすび」と掛け軸の竹図が展示されており、鉄斎、大観、御舟、華岳をはじめ、古今の水墨画の名品の数々が、事務局長でもあられる学芸員の渡辺新太先生の監修のもと、夏をテーマに大変充実した内容の展示でございました。私たちは、渡辺先生のご親切な解説により、一点一点をじっくりと拝見することができ、さながら日本美術の個人授業を受ける観でありました。
 花籃は、それぞれに祖父らしい作風のもので、敦井美術館創設者の敦井栄吉氏が蒐められた琅玕齋作花籃13点の中から、その銘が夏に因む前記3点と、平らにのばし折り曲げた白錆竹(琅玕齋考案の技法 通称「のし竹」)の掛け花籃、掛軸は、いかにも祖父の筆運びの水墨画、銘「脩竹」。

 水墨も、どれも素晴らしい作品ばかりでしたが、特に、私の大好きな日本画家村上華岳の筆になる「山二題双幅」は、蒼味を帯びた墨色の山を背に、黒々とした松の枝ぶりが見事な、左右一対の名品でした。年齢を重ねたせいなのか、華岳の柳図などに見られる深さ、妖しさに通ずる美に、魅了される私ですが、初めて拝見したこの作品にも、引き込まれるようなものを感じました。

 たっぷりと時間をかけて、ちょうど会席料理の美味を味わうような塩梅(あんばい)で、見事なお料理の数々にお腹も膨らんできた、と思いきや、その時点で、まだ次なる「美の献立」が待っているとは・・・展観後、お茶を頂いての談笑中には、予想も致しておりませんでした。
 さて、件(くだん)の「美の熱中症」は、ここから、いよいよその症状の本番となって参りました。

 敦井美術館収蔵作品の飯塚家三代の作品の中から、鳳齋2点、琅玕齋3点、小玕齋2点を
作品調査として拝見することができたのです。過去に、出光美術館、或いは個人所蔵家など、毎回、飯塚家の作品調査のたびに、多々受ける衝撃に、勝るとも劣らぬ今回の衝撃は、まさに「熱中症」と名付けたくなるようなものなのでした。

 血のつながりによるものなのでしょうか? また、父や祖父、曽祖父の手に成る作品を、血縁の私が、讃えるような事は、少々はしたない事なのかもしれません?
でも、それは、古今東西の美に出会うとき、私を等しく襲う症状ですし、皆さまの中にも、きっと美術品のみならず、何か美しいものに出会って受ける衝撃をよくご存じの方もいらっしゃることと思います。

 今回も作品調査という事で、何よりも恵まれておりましたことは、通常は、美術館で陳列ケース越しでしか見る事の出来ない作品を間近に、手にとって見る事が出来たことでした。花籠に限らず、工芸品は、本来、使い愛でるということを基礎に成り立っている美術品ですので、触った感触、手に取った時の重さ、或いは軽さ、そして、その用途によって、花籠は花を活け、盛器には、お菓子やお料理を盛り込み、茶碗でお茶を喫し・・等々、最終的には、使ってみて作品が完成するわけなのです。その味わいの最終段階の花を活けることこそ叶いませんでしたが、手にとって、撫でる、重さを感じる、また、落とし(筒)を取った作品の内部「見込み」を見る、そして、圧巻は、底を見るといった特別と申しましょうか、本来の楽しみ方が許されたのですから、竹工芸作家である大木さんはもとより、私には、亡き父や祖父の肌に触れることができるようなこの上ない機会であったわけです。

 拝見させて頂いた作品中、特筆したいものは、琅玕齋作花籃、銘「田子の浦」と同、銘「黄縅」(きおどし)であります。
「田子の浦」は、1989年、栃木県立美術館で開催された「飯塚琅玕齋展」以来の対面でして、制作年は1956年(昭和31年)、琅玕齋66歳最晩年の頃の花籃です。

 以前ご紹介してあります栃木県立美術館学芸員の鈴木さとみさんの論文(2010年2月20日 「真・行・草のお話」参照)でも、この作品について触れられておりますが、銘「田子の浦」のよすがを逆三角形の作品の姿から、「逆さ富士」なのではないかという推論もあり、例によって、銘と作品の関連性に思いを致す楽しみ方のできる花籃の一つです。
また、銘もさることながら、琅玕齋の作品中、何点かの作品が二重箱(内箱は、桐または杉材、外箱は漆塗り、黒柿材など)に収められておりますが、二重箱仕立てものは、そのどれも、祖父の思い入れの強い作品でして、この作品も最晩年の作品中の注目の一点であることは、間違いないでしょう。

 材は、鳳尾竹もしくは、根曲竹を染め、四方にのし竹を渡し、底部の意匠は、私は今回はじめて認識したのですが、実にダイナミックなもので、「耳」の作りの創意も類まれなものでした。琅玕齋作品中の逸品の一つといえましょう。

 1989年2月開催の「飯塚琅玕齋展」(於 栃木県立美術館)カタログの画像を掲載させて頂きましたが、言葉によって、作品の見事さをお伝えするのは、毎回至難の業ですが、「黒漆(こくしつ)の霊峰」とでも申しましょうか? 琅玕齋の作品中、富士を作品銘に詠み込んだものに、文字通り「霊峰」という鳳尾竹(煤竹)の花籃がございます(栃木県立美術館所蔵)。これなどは、逆さ富士に対して、本来の富士の頂の姿を手の側面に取り入れた、美しい作品です。富士は日本の代名詞、古今の工芸作品に富士を銘にしたものは、多々あるかと存じます。

 田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りつつ 
                       山部赤人 万葉集巻三 三一八
 
 もし、この歌に基づき、琅玕齋が作品「田子の浦」を制作したと仮定致しますと、この歌のクライマックスである「富士の高嶺」は、今回私が驚き入った高台(底部)の意匠にあるかという事が出来るように感じております。富士の頂の角ばった形態を、祖父は「つぶし」の技法によって、叩きのばした平竹のばっさりとした切り口によって表現し、飾った時の安定感と同時に、切れ味の良い、より強い作品の存在感へと繋げていったのではないかと考えられます。
 いつの日か、この作品が、皆さまのお目によって味わって頂けることを願って止みません。

 さて、もう一点ご紹介したいのは、花籃 銘「黄縅」(きおどし)です。
「縅」とは、日本の甲冑の製造様式の一つで、元来、緒を通す「緒通し」の当て字だそうで、鎧の腹部などに用いられている絹の色糸による技法の名称です。「平家物語」で、平実盛が合戦で身に着けていた「萌黄縅」(もえぎおどし)が有名です。

 敦井美術館では、毎年五月、端午の節句には、この花籃に、館御所蔵の徳岡神泉作「菖蒲」図をとり合わせて、展示されるということで、まさしく素晴らしい展示をされていらっしゃる事と敬服いたしております。ここに掲載させて頂いた写真は、1952年7月、第8回いけばな同人会(於 新潟小林デパート)で展示された時のものでして、活けられたお花と花籃の形との絶妙のバランスが見てとれるかと思います。
 
 制作年は、1951年(昭和26年)、祖父61歳、第7回日展招待出品したものです。

 技法は、「のし竹」を中心に全面上部と側面に日本の意匠である「七宝繋文」(しっぽうつなぎもん)を配しております。鎧の形態から想を得たことがおわかり頂けるかと思います。
七宝繋文の部分は、芯に籐の環を用い、材質が柔らかい根曲竹を巻き繋いだ技法で、手間のかかる大変繊細な技術です。同様の技法による花籃「つるむすび」は、熱海のMOA美術館に収蔵されております。また、幅約33pの大変に太い、孟宗竹を平らにのばした胴部の白錆竹は根曲竹と共に、年月を経て、とても美しい飴色に成っております。

 そして、次回、いつの日か展示の時、皆さまがご覧になるポイントの一つなのですが、この作品の右側面の七宝繋文の手前上部の一目が、飛ばしてある(外してある)ことがございます。残念ながら、あえて一目外した祖父の真意を直に問う事は、もう叶わないのですが、琅玕齋の制作上の意図については、この写真の裏書に、正面からの撮影で「わざと斜にして七宝を一か所外したところが消えたことは残念でした・・」と写真をお送り下さった方からのお言葉が記してあり、祖父はこの件に関しては、何らかの説明をしていたことがわかります。
このような事は、作品を仔細に見ていけばまだまだ沢山あることでしょう? また、飯塚家の作品に限らず、芸術作品には、しばしば「作家の暗号」のようなものが隠されているものです。

 美術、工芸作品の鑑賞方法は、色々ございますが、それは、人生に於ける旅の一齣のようでもあります。旅には、人や物との出会い、味わい、感動によって、最終的に自分自身と出会えるという意味もあるように思います。

 敦井美術館でのまるで魔法のような時間は、あっという間に過ぎ、時ははや夕刻にならんとしておりました。作品拝見、調査を終え、私と大木さんは熱に浮かされるような、まさしく「美の熱中症」にうずくような頭と身体を、クールダウンせねばと、新潟の海風にあたりに、海岸へと向かいました。

  夕日の佐渡
  はるか向こうは、中国、シベリア、ヨーロッパ

  太古より横たふ佐渡ヶ島

  天の父、祖父、多くの美のしもべたち


 有限な人の命の中から、永遠の美が生み出されるわけですが、もう一つ、美に殉じた類まれな女性のお話は目前の11月に向けて、早々に次回お話させて頂こうと思います。

 先ずは、皆さま、錦繍の訪れの中、遅い秋の空気を胸いっぱいに楽しまれますよう、私も、やっとちらほら赤味を帯びてきましたもみじの梢を目に、ここで一先ず、筆を置かせて頂きます。
posted by mari at 02:49 | 2010年