季節の基(もとい)が、狂っているように感じます。
ヨーロッパ大陸の気候では、しばしば経験がありますが、いきなりの寒気到来や、数日違いの気温の大きな変化など、穏やかな風土、日本では、あまり経験したことのない季節の訪れ方のような気が致します。
なにやらカクカクして、丸みを失った季節の流れの中で、人の心もやさしさを置き去りに、どこか見ず知らずの次元に行ってしまいそう・・・
流浪の民の如き生活で、ヨーロッパ、日本往復の私ですが、やはり、生まれ育った国の風土の不具合、地球の不具合には、憂いを感じます。
さて、先回は、遅ればせの9月のご報告でしたが、今回は、10月4日、やっとちらほら、秋の気配のしてきた銀座でのお話です。
少しお話が廻り道になりますが、私のホームページ「琅玕洞」の名前の由来から、先ずお話致しましょう。
1910年、東京神田淡路町に日本初の画廊「琅玕洞」が、高村光太郎、道利によって誕生致しました。琅玕の意は、「竹の深い緑色」また「翡翠の色」を表しますが、光太郎さんが、「琅玕洞」の名を選ばれたのは、森鴎外翻訳のアンデルセンの自伝的作品「即興詩人」中のイタリア「青の洞窟」の訳語、「琅玕洞」(最終章)によるそうです。
琅玕齋の雅号は蘆野楠山翁(篆刻家)によって、若き弥之助(琅玕齋本名)の自立を促す意味からも命名されたと聞いております。その時期は、祖父26歳の頃、1916年頃からと思われます。(因みに「石」を愛した祖父は、別号琅玕齋友石とも名乗っておりました。)
画廊「琅玕洞」は、わずか1年と短命だったそうですが、当時の白樺派などの思想を背景にした印象派志向の芸術家達や、光太郎の妻となる智恵子の作品発表などもされたそうでして、世間の注目多きことでしたでしょう。
また、1910年は、飯塚家一族が、栃木から上京した年でもあり、二十歳の祖父にも、琅玕洞の名前は認識されていたであろうかと想像されます。
当時の「洋行帰りのモダンな先鋭的芸術家、光太郎」の理想に基づいた「日本初の画廊」の名前を使わせて頂くにあたり、当然ですが、親戚である高村家に許可を受けに参りました。(4月16日「あはれ」でも触れましたが、高村家は、母方の縁戚筋にあたります。)

また、パリ留学中、若き光太郎さんが、異国で感じたであろう日本人としての認識、どんな思いと共に帰国をされたであろう?ということも・・・
私の内部の汲めども尽きぬ、「芸術と民族と風土と・・・そして人生と」あらゆる思いを込め、「竹」に纏わるお話を主軸にしながら、時空を超えた「ネット空間」での問わず語りをさせて頂く事をお許し下さいませ。
さて、時は平成・・・
かつては、文化人が集い、今の世も、数々の文化の発信地である銀座、解体新築中の歌舞伎座を目前の永井画廊の展示空間に、それはありました。(2010年10月4日〜23日、高村光太郎智恵子展 永井画廊にて開催)
昔、女ありき
美に生き、愛に生き、
美に殉じ、愛に殉じ
世の人、狂いしという
されど、微塵の狂気の滴もなき
色彩とコンポジションの乱舞
その女(ひと)の名は、高村智恵子
全くの知識なしに「智恵子の紙絵」を目にする時、時を超え、永遠を感じます。
「ほんもの」と感じます。
何故なのでしょう?
光太郎、智恵子のお話は、ご存じの方も多いかと思いますし、「智恵子抄」(高村光太郎著)に詳しくありますので、内容の説明はそちらに譲らせて頂き、精神を病んだ智恵子の闘病生活の中から生み出された紙絵への私の思いを、お話してみたいと思います。
「美」とは何か? 人の心を打つ美とは?
古今東西の多くの人々が、「美について」考え記し、語り、奏で、歌い、作り、そして、読み、聞き、聴き、観て(その中に工芸の用も含まれましょう)きました。
しかし、いずれにしても、美とは、「感ずる」ものでしょう?
そして、その感じ方には、無数の「かたち」があるのだと思います。ちょうど、人の「いのち」が無数にあるように。
智恵子という女(ひと)の「いのちとかたち」は、光太郎という一人の男(ひと)に向かい、無限の色彩と輝きを放っていたのかもしれません。
当時、精神を病んだ智恵子は、病室をさながらアトリエの如く、小さなマニュキュア鋏を駆使し、和紙や数々の色紙、包装紙を素材として、一心に創作しました。ただ一人、光太郎のみが、智恵子によって見る事を許された人でした。
病室を訪れる光太郎に、智恵子は、恭しく(うやうやしく)その作品を捧げんばかりに見せたそうです。

実に、古(いにしえ)より、「何ものかに捧げる」という思いと共に成立し、それが故に光を放つ数々の名作、名品がございます。
太古の人々は、畏れ(おそれ)を持って神に、また大君に、或いは時代を経るに従って、時の為政者に・・・そして、時に「美」は、身近なたった一人の人間へも捧げられ得るものなのかもしれません?
毎年、10月末から、11月初旬に渡って開催される「正倉院展」の展示物の多くも、やはり時の大君、聖武天皇への捧げものを中心とした宝物(ほうもつ)が展示されております。日本の工人、或いは大陸の工人の手に成る宝物の数々は、工芸美術の粋と称されております。
私は、智恵子の紙絵も、光太郎への捧げものということができるように感じております。 無作為の作為とでも申しましょうか? 己を空しくする心を持ってしてこそ、「美」が成立出来るというのは、過言と思われるでしょうか?
そこには、もう、「芸術」という意識すら、消えてしまっているのかもしれません?
智恵子は、精神を病むまでの日々、日常の営みと実家の没落などの苦悩と共に、絵画への飽くなき探求を続け、遂に絶望へと至った、と光太郎は語っております。
人の世にあって、日々の方便(たつき)は、避けて通る事ができません。現実と理想と、芸術家のみならず、人間は常に相反する相克の中に生きて行かなければならないのかもしれません?
「神は、智恵子をして狂わせ、美を顕現せしめた。」私は、智恵子の紙絵を見る度、そう思わずにはいられません。
ここにも、一人の「美の僕(しもべ)」が、あったのです。
次回は、秋深き日本、房総館山の地での「異国の民による竹の調べ」について・・・お話してみたいと思います。
皆さまのおひとり、おひとりに、行く秋の限りなく美しくあらんことを願いつつ・・・