2011年01月31日

匂い

 2011年の年明け、皆さま、いかがお迎えになりましたでしょうか?

 寒中お見舞い申し上げます。
 
 暦の上では、大寒も過ぎましたが、本年も、この随筆をお読みいただけますよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 北ドイツの年明けは、昨年からの根雪の中、2011年0時直前の、耳を劈(つんざ)かんばかりの花火の音と共に始まりました。

 元旦の闇にとけ入る静寂(しじま)かな       万里


 2時過ぎともなると、一切の騒々しさは治まり、限りなく拡がる闇が、たっぷりと静けさを際立たせます・・・

 ドイツ、田園の闇は、どこまでも、どこまでも限りない漆黒です。

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 1月、冬の夜明けは、8時近くなってやっと訪れ、日中でもどんよりと暗く沈んだ昼間は、あっという間に暗闇に戻ります。光乏しい冬、長く重苦しく、冷たい冬は、気持ちもついつい下向きになりがちです。下向きの心は、肉体にまで及び、ひどい鬱状態さえ起こしかねません。
 
 家の中が、ほっこりと暖かいだけが救いですので、私は、日本で中断していた読書や思索、時には、ジャムやお菓子作りや料理に救いを求めることとなります。

 台所で、ゆっくりと煮込むジャムの匂いは家中に漂い、林檎の時もあれば、南欧のオレンジなど、本気でおいしいジャムを煮ようとすれば、基本はお砂糖と共に煮るだけなのですが、それぞれの果物によって、仕込み方にも独特の方法があるのです。私は、オレンジマーマレードが大好物で、おいしいビターマーマレードを作るには、全工程四日もかかるレシピがお気に入りですが、これには、寝かせておく時間がかなりの部分を占めますけれど、「いざいざ・・」といった気合がないと、途中でつい疲れてしまうのです。

 「男子厨房に入る」は、めずらしいことではなくなりましたが、やはり何といっても料理は、今も昔も主婦、女の仕事となっておりますね?
毎日三食、心を配りながら、家族のために作る事は、便利になった現代でも、主婦には時に、嫌気のさすこともあり、根が怠け者の私は、昔、子供たちが小さかった頃は、他の家事と重なって、単調な繰り返しにほとほと疲れて、料理の楽しみなどは、どこへやらという事も度々でした。

 その頃、手にして、難解ながらも救われた本がございます。

「典座教訓」(てんぞきょうくん)福井永平寺、開山の祖、道元禅師が著した御本で、「典座」という台所方の仕事が、禅の修業の上で、どれだけ重要であるかを説いた本なのです。

 嘉禎3年(1237年)道元禅師38歳の頃、著されたそうです。禅書ですので、内容は仏法の事であり、原書はもちろん漢字ばかりで、私のような者には読み下すことはおろか、解釈さえ、おぼつきませんが、副題を「調理と禅の心」とした上田祖峯氏の本は、新釈を加え、解説の柔らかな文章が、子育てに追われ、家事にうんざりしている怠け者主婦の私の心に、不思議と綿が水を吸う如く、染み入っていったのを記憶しております。

 凡夫の日々の生活は、決まりごとをこなす事に終始し、明け暮れて行くのが常ですから、惰性に陥ったり、疲れてうんざりしてしまったり、自分を律して、その中で、何かを生み出して行く創作者であろうとするのは、なかなか困難な事のようにその頃の私は、思っておりました。ものづくりや、読書や文章を書く自由な時間も取れず、日々の事にも気持ちを込められず、中途半端な思いに鬱々としていたように感じます。

 「意義」を見失った迷子の私に「典座教訓」の言葉は、芸術家だろうが主婦だろうが、全ては心を込めて、何事にも相対するならば、「道」は同じであることを示唆してくれました。

 「炊事即仏道」(すいじ そく ぶつどう)

 禅林(禅宗の寺院)の典座職に向けられた言葉ではあるのですが、今でも、相変わらず、悩み多き私の心にすっと入り込んでくる言葉の一つです。
 
 竹工芸家の父を見ながら育った私にとって、芸術家は、表現者であると同時に禅のお坊さんのように、日々之修行という印象が強く、その事は、私の現在の生活の端々にも影を落としています。
 でも、まだまだ、修行の足りない私ですので、やれ、寒いだの、暑いだの、疲れただのと、不平不満も多く、また、ドイツの暗い冬には、弱い心に負けてしまい、鬱々とした気分に支配されてしまう事も年中なのです。

 さて、ジャムを煮る匂いが、家中に満ちていますと、何とも言えず、心が落ち着く私ですが、「匂い」という日本語には、様々な意味があるようです。

 「におい」には、「臭」と書く心地よくないにおいもありますが、文字通り香り、香気を表すのは元より、
   ・赤などのあざやかな色が美しく映えること。
   ・はなやかなこと。つやつやしいこと。
   ・ひかり。威光。
   ・(人柄などの)おもむき。気品。
   ・同色の濃淡によるぼかし。(平安の頃の襲《かさね》の色目などのぼかし、日本刀の刃の地肌との境目の部分の霧の様にほんのりと見える文様)
   ・和歌・俳諧などに漂う気分・情趣・余情など。
   ・そのものが持つ雰囲気。
        などなど・・・・・

 他の言語を詳しくはわかりませんが、ドイツ語には、ここまで多様な表現はなされていないように思います。

 芸術の世界でも、時々、「匂い」という言葉を使うことがあるようですが、「作風」というような意味合いで使われることが多いかと感じます。

 私の曽祖父の代からの飯塚家の制作地は栃木県をルーツとして、東京、つまり関東なのですが、竹工芸は、もともとの唐物籠の影響を基盤に、主に九州、関西、関東と大別されてきました。近代から現代へ、個々の作家の持ち味へと変遷していったのですが、技法や形態などから、竹工芸の世界の人間は、時々「匂い」、特に私の身近では、「飯塚系の匂いがする」というような言い方をする場合がございます。

 「飯塚系の匂い」について、言葉で表現することは、例によって至難の業ですので、こればかりは、作品をご覧になっていただくしかありません。そして、祖父「琅玕齋の匂い」を今も作家の方達を始め、多くの方々が、追い求め、愛して下さっている事は、ぜひお伝えしたいことでもあります。

 父小玕齋には、何人かのお弟子さん達が居られますが、現在活躍中の作家では、昨年5月の「新緑の季節」でご紹介した大木淑恵さんの他に、松本破風さんが居られます。

 2月3日から、12日まで、銀座一穂堂サロンにて、松本破風さんの個展が開催予定となっていることをお知らせ致したいと存じます。

 竹ブームの長いアメリカで、昨夏、大木淑恵さんも女性作家グループ展に参加されましたが、松本さんも過去に数回、アメリカで個展や、グループ展での発表も経験しており、海外にも破風ファンは存在しているようです。
 大木さんは、三十代のまさしく若手作家ですが、作家的年齢では、五十代も若手というこの世界では、五十半ばの松本さんは、進化中の脂の乗った季節を快走中の作家と言って良いように思います。

 お人柄は、剣道の師範もされていた事から、私は、時々「野武士」と擬える(なぞらえる)事もあるのですが、剛毅と同時に繊細さも兼ね備えた方です。父小玕齋五十代後半の、いちばん厳格な頃に四年ほど修行され、昔風、ちょうど禅宗の雲水のように、庭掃除、雑草取りなどから、叩き込まれたお弟子でもあります。現在は、千葉館山で、ひっそりと制作されております。

 それぞれの作家の方達は、ご自分の作風の追及を大切にされますが、また、そのあたりが工芸作家にとっては、一番難所で、技術の練磨と「自分独自の匂い」を追求する日々は、ご苦労の多いことと、感じております。そのような意味合いから、松本さんも、日々、ご自分との格闘の連続でしょう?

 「師の匂い」或いは、伝統と言い換えても良いかもしれませんが、それが、時に重荷となるようなことも、弟子制度や踏襲というものが存在し、伝統文化の存在する日本においては、工芸に限らず、芸道の世界では、多々ある事かと思われます。

 作家自身のあり方によっては、一つの宿命のような意味合いを持ってくるのかもしれないと、感ぜざるをえません。

 父小玕齋もかつて通った道でもあります。

 少なからず、「飯塚系の匂い」を醸し出そうと模索中の松本破風さんの竹の世界を多くの方にご覧頂ければ、と願っております。

 どうやら、そろそろ林檎ジャムも程よく煮えてきたようです。筆を置き、甘い匂いごとそっくり、瓶詰めの作業を始めようと思います。

 まだまだ寒さの続く毎日ですが、皆さま、どうぞ風邪など召しませんよう・・・

  
 「松本破風・竹工芸展」 2011年2月3日(木)〜2月12日(土)
             於 銀座一穂堂サロン http:// www.planup.co.jp  
               中央区銀座1−8−17 伊勢伊ビル3F
               11:00〜19:00(月休) Tel:03-5159-0599
posted by mari at 16:10 | 2011年