2011年02月26日

 立春も過ぎ、如月の日々、日本から雪の便りが届きました。

   雪のあしたの裸洗濯

 白銀に輝く関東平野に、くっきりと澄み渡った青空。
 日本の冬しか知らなかった幼い頃の私には、光が満ちた晴れやかな雪景色は、当たり前のものでした。

 木々の、家々の、「影」が、純白のキャンバスに、様々な模様を描きます。
 それは、喜びに満ちた一幅の絵画のようです。

 一方、今、私の視線の先、大きなガラス窓の向こうには、どんよりと悲しげな煉瓦造りの家並み、木々の枝々は、銅版画のように、神経質な黒々とした線を描き、彼方の山の稜線は、雲に隠れて、その姿を見せません。 

 襟を立て、背を屈めつつ、散歩の道すがら、微かな「光」を見つけました。

     まんさくに光拝みて早春賦      万里

 春は、見え隠れしながらやってきて、気づくともうそこにある、というものかもしれません。早春にひっそりと咲く「万作」の花、ドイツにもあるその花は、日本人の私の心に、微かな光を思い起こさせ、静かに春を知らせてくれました。

 そして、遠く記憶の彼方から蘇った「早春賦」の旋律・・・


    早春賦       作詞 吉丸一昌 作曲 中田章
 
   春は名のみの  風の寒さや
   谷の鶯     歌は思えど
   時にあらずと  声も立てず
   時にあらずと  声も立てず

   氷融け去り   葦は角ぐむ
   さては時ぞと  思うあやにく
   今日も昨日も  雪の空
   今日も昨日も  雪の空

   春と聞かねば  知らでありしを
   聞けば急かるる 胸の思いを
   いかにせよとの この頃か
   いかにせよとの この頃か 
 
 「あと少しの辛抱・・」と、縮こまった心と身体を暖めてくれるようです。
 時と共に、陽光も力を増していくことでしょう・・・

 さて、「光」は、外界にあっては、P2150016.jpg春の兆しの一つのあらわれですが、古(いにしえ)から現代まで、屋内に置かれた竹籠にとっても、重要な役割を果たしているように感じます。

 日本の古い家屋では、「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」でかつて谷崎潤一郎が綴ったごとく、現代のように明々(あかあか)とした電灯も、日光をいっぱいに取り込む間取りもない、ぼんやりとした薄明かるい空間が常の事でした。茶室などは、その最たるもので、日本人は、長い間、そういう陰翳の中で暮らしを作り上げてきたのでしょう。

 床の間に、季節の花が活けられた花籠は、掛け軸や、香、湯の涌く松籟(しょうらい)の音など、亭主によって醸し出された空間の中で、ひっそりと「内からの光」を放ちます。

 私の生まれ育った東京千駄木の今はもうない旧宅も、古い日本家屋で、時折、夢に現れる茶室や、広間は、やはり薄暗い空間で、子供心には少し陰鬱として、重苦しい家内でしたが、年を経て、今の私には、しっとりと静謐な空気が懐かしく、季節季節に活けられた床の間の花や、「手沢(しゅたく)」や「なれ」などと、谷崎が尊ぶ如く、底光りのした家具調度に囲まれた昔風の暮らしもよいものだと思うのです。

 「手沢」とは、長く所持する間についた艶(つや)のこと、「なれ」は、熟することを意味するそうで、日本の工芸のそれぞれの分野における味わいには不可欠のことで、竹工芸では、素材である竹が、一本一本の竹ひごに姿を変えた後も生き続け、時を経るほどに、手入れさえきちんと施されていれば、深い光を、作品の内側から放ち続けます。

 内なる光・・・

 そういえば、「竹取物語」では、竹取の翁が、「もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。」と、小さきかぐや姫との邂逅が美しく、語られておりますね?

 さて、来月は、御伽噺(おとぎばなし)ならぬ、現代のお姫さまと、「内なる光」から、「外なる光」と竹籠の出会いのお話をさせて頂きたいと思います。
posted by mari at 03:50 | 2011年