2011年03月08日

稜威(いつ)

 窓を開け、朝の空気を入れ替えました。20110308.jpg

 明け方の雨のせいでしょうか、微かに重さを含んだやわらかい空気が、ふわっと流れ込み、思わず深呼吸してしまいました。

 なつかしい空気・・・

 今朝も曇天の暗い空ですが、雲に覆われた空の底に、薄く光を感じます。

 ミラベルの枝々には、点々と雨後の光る滴、淡い赤みを帯びた蕾も点々と・・・
 
 日本は蝋梅(ろうばい)の香りが馥郁として、また、白梅、紅梅、桃の便りも、そこここに・・・

 陰暦三月「弥生(やよい)」は、「いやおい」とも読み、「弥」は「いよいよ、ますます」の意だそうで、これから春に向かい、草木の繁る勢いも増していくことでしょう。

 北ドイツ、我が家の庭の東隅に、わずかばかり、矢竹の一種、笹に似た二株を植えておりますが、寒さにもめげずに「竹の秋」(春の季語、竹の落葉期は陰暦三月)を迎えようとしております。
 
  弱竹(なよたけ)の輝ふときや たけの秋    万里

 春の光に、ちらちらと笹の葉のうるわしい季節も、すぐそこまで来ております。

 「なよ竹のかぐや姫」とは、しなやかな竹の如く輝くお姫さまという意味で、「竹取物語」では、「三室戸齋部(みむろどのいんべ)のあきた」が銘々したとあり、古(いにしえ)のかぐや姫は、月の世界へと倭(やまと)の国を後にしましたが、今日ご紹介させて頂く、現代、「平成の姫君」は、はるか異国、英国にてのご勉学を修められ、ご生誕の地、日本へと戻って来られました。

 (ちなみに、皇族の雅称を「竹の園生(そのう)」と呼ぶのは、史記、前漢の文帝の皇子梁の孝王の庭園を竹園と呼んだ事からだそうで、名称は元より、「大嘗祭(だいじょうさい、天皇が即位後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)」の儀式用具に竹籠(神服入目籠しんぷくいれめかご)が用いられたり、また、神道の「依代」に竹が多く用いられるなど、皇室と竹とのつながりは、多くあるようです。)

 この度は、本年1月より、月刊誌『和樂』で連載されている「彬子女王殿下が贈る『日本美のこころ』」第4回(4月号)にて、祖父琅玕齋の作品5点他とともに、「世界で唯一の芸術、日本の竹工芸」として、竹工芸に関する一文を頂いております事を、皆様にお知らせしたいと存じます。

 ご存じの方も多いかと思いますが、彬子女王殿下は、寛仁親王殿下の第一女子として誕生され、学習院大学ご卒業後、オックスフォード大学マートンコレッジに留学され、昨年女性皇族として、初の博士号を取得されました。特に、海外の日本美術コレクションに関する調査・研究に習熟されており、ご帰国後は、京都立命館大学衣笠総合研究機構に席を置かれ、ご公務のかたわら、ご研究を続けていらっしゃるとのことでございます。 
 
 そして、本来のご専攻の日本美術史の土台の上に竹工芸の世界にくっきりとした眼差しを向け続けて頂いている事が、これからの竹の世界に関わる人たちにとって、大きな支えとなって頂ける事だろうと、感じております。祖父の作品、琅玕洞表紙の、煤竹「花籃」に「ひとめぼれ」されたという御文中の一事は、何よりも大変嬉しく思われました。

 味わい深い日本の古民家の柔らかい光の中に置かれた竹籠の姿は、花が活けられたものも、そうでないものも、共に麗しい記事になっておりますことは、喜びに絶えません。
 
 第1回の「伊勢神宮のご神宝」に始まり、毎回、色鮮やかな写真によって、普段はあまり一般に目にされない、しかし、日本美の粋(すい)といっても良い数々の美術品が掲載されており、彬子女王殿下ご執筆の、一般にも大変にわかりやすい文章と共に、改めて、古来より日本の真髄とされていた、日本独自の美を垣間見る、またとない機会かと思います。

 飯塚家の歴史を遡ると、1915年(大正4年)大正天皇即位に伴う大嘗祭のための神服入目籠一対を、鳳凰、二代鳳齋、弥之助(琅玕齋)揃っての御謹製に始まり、平成の時代まで、宮内省買い上げ、献上など、三の丸尚蔵館、神宮美術館収蔵の作品もあります。
他の工芸分野の名だたる名人達、古来からの「美の僕(しもべ)」の末席に飯塚家の人間も名を連ねさせて頂いておりました。

 また、昭和54年(1979年)から、3年に渡り、正倉院の宝物調査に携わった父小玕齋は、竹を材とした数々の宝物の調査により、改めて竹工芸の日本美術における存在意義を認識させて頂いた「竹工芸家の人生」で、重要な機会であったことを、よく語っておりました。
(この時の研究報告は、本年正倉院ホームページ、『正倉院紀要(年報)』電子書籍版にて、公開の運びとなりました。)

 明治維新とともに、西洋の文明が怒涛の如く日本に流れ込み、日本独自の文化を、ないがしろにしがちであった長い時間が流れ、今、私たち日本人は、色々な意味で岐路に立たされているように感じます。
「芸術」「美術」という言葉も明治維新に伴って、ドイツ語の工芸美術や造形美術を意味するKunstgewerbeやBildende Kunstなどの訳語として使われ始めたもので、古来より日本にあった手仕事の世界も全てがそれらの言葉の元にひとくくりに置かれていました。

 そのような時代の流れの中で、竹工芸は他の日本独自の工芸分野とともにどうにか存続をしてこられたわけですが、なかなか一般の方々には理解され難いままになっていることも事実なのです。今回の『和樂』の特集では、そのあたりの事を、彬子女王殿下の海外でのご経験も含めて、語られておりますので、ぜひ皆様にもご一読頂きたく存じます。

 明治、大正、昭和、平成と150年足らずの時間の流れの中で、この国は、数々の出来事に見舞われながら、「ある何か」を失ってしまったようです。残念なことに、一般にあまり意識されなくなってしまった日本文化の根幹を千何百年の長きに渡り、心として、形としても守り続けて来られている皇族の方々の果たされる役割というものには、私のような者でも畏敬の念を隠せざるを得ません。

 さて、「稜威(いつ)」という言葉がございますが、現代では、ほとんど目にする事のない言葉と成りました。また、この言葉の持つ深い意味については、私は、まだまだ、勉強を続けて行かなければ成らない事と感じております。
 
 その意味は、
・ 尊厳な威光。威勢の鋭いこと。
・ 斎(い)み浄(きよ)められていること。祝詞、神賀詞。
・ 植物などが威勢よく繁茂すること。

だそうで、すぐさまそのイメージを思い浮かべる事は、この時代にあっては、大変に難しい事かと思います。また、先の大戦の頃をご存じの方々には、曲解された意味のイメージの方がおそらくは強く、戦後、良きも悪しきも「和の風」が排除されてしまった中で、文化の底に隠れてしまった言葉であり、概念なのだろうと、私には感じられます。

 今は、ただ、「稜威(いつ)」という言葉が、日本文化の底にあるらしい、ということを述べさせて頂くだけに留めておきたいと思います。

 そして、「光」という言葉が、日本語の中でも美しく響く数々の言葉のうちの一つだと、常々私が感じております事も、共に申し上げたいことでもあります。

 さて、二月の文章では、「内なる光」を放つ竹籠のお話をさせて頂きましたが、現代の居住空間の中に置かれた竹籠は、また、古とは異なる姿を持つようですし、また、そこに、新しい竹籠鑑賞の醍醐味も生まれてくるようです。

 私たち日本人は、蛍光灯や、それに準ずるような照明にはもう長い間慣らされており、明度の高い住空間にあることが多くなっております。

 おもしろいことに、ヨーロッパでは、あまり蛍光灯が用いられず、赤みを帯びた電灯の間接照明や、時には、蝋燭や、暖炉の薪の炎の明るさだけで、夜を過ごすことも多いので、こちらに来たばかりの頃は、町角の暗さと共に、夜のひとときを美しく感じたものです。

 そして、日本の外光を多く取り込む洋風の建物には、かつての陰翳は失われて久しくなりました。

 工芸品の楽しみ方は、それぞれの時代時代で変化して行くもので、そこに昔では思いつかないはっとする新鮮な美しさも生まれてくるのだろうと思います。
陰翳の中で、ひっそりとした美を語っていた日本の工芸品も、新しい時代に向けて、新しい意匠を加えていくこととなるのだろうと思います。

 竹工芸においては、彬子女王殿下のお言葉の如く、「外なる光」との出会いにより生まれた「影」の成す美であるのでしょう。

 彬子女王殿下は、「竹の園生」の中で、お育ちになり、異国、英国の地で、しっかりとこの国を外からご覧になられた確かな眼を以て、日本独自の美に臨まれておられるように感じます。その御炯眼が今後の日本にどれだけ深い意味を持たれることであろうかと、心より敬服いたしておりますのは、私のような者に限らず、多くのこの国を思う人々、皆の思いなのではないでしょうか?

 今後も、私は、彬子女王殿下より、皆さまと同じように、『和樂』連載記事で、多くの事を学ばせて頂けることを、嬉しく、願うばかりでございます。

 さて、来月は、桜の便りも聞かれる季節となりましょう・・・
どのようなお話をさせていただくか、お雛様に、そっと問うてみようかと思います。


『和樂』小学館  http://www.waraku-an.com/
posted by mari at 07:26 | 2011年