2011年05月06日

それでも、花は咲く

 4月23日、福島県三春町の樹齢千年といわれる日本三大桜「三保滝桜」満開の写真を目にしました。

 「それでも、花は咲く・・・」

 あまりに、かなしく、はかなく、美しく・・・
 限りない思いの重なり合った花便り・・・

 被災地の、被災地以外の地球上全ての日本人の「心の眼(まなこ)」に映る「花」を、北の大陸の果てより、私は、目を閉じ、祈りと哀悼の念と共に、深く我が心に刻み付けています・・・
 
 あの日から、既に二ヶ月足らずの時が経過しました。

 言葉を失った毎日が続きました。今も私の心の底の「何か」には、与えるべき言葉が見つかりません。

 「沈黙」こそが、この春には、いちばん相応しいように思われてなりません?

 「それでも、花は咲く・・・」

 天上より、幾度も、幾度も聞こえ続ける声は、いったい私に何を教えようとしているのでしょう?

 いつになく、春の訪れの早かった今年の北ドイツでは、高速フィルムを見るように、時々刻々、植物の成長が早く、庭のミラベルは、たった一日で満開の花びらが散りました。

 弱ってしまった心の私には、ひどく残酷に、若葉はぐんぐん伸びていき、草いきれの芳しいはずの庭から見上げる、澄み切った青空には、太陽の、これもまたいつになく強烈な光が、息苦しく、私を威圧するかのようです。

 毎夕の日没の太陽は、何故か「血の色」を滲ませるように、真っ赤に燃えて沈み行きます。

 日本の東北の瓦礫の先の、ざくざくとした地平線、心なし吸い込まれるように沈む太陽も、同じ色をしているのでしょうか?

 私が、常に仰いできた「大自然である宇宙」は、まさに今、人類に何かを語りかけ、導こうとする意志を強く感じさせます。

 それは、錯覚、幻なのでしょうか?

 古事記上つ巻、邇邇芸命(ににぎのみこと)の段に登場する花の如く麗しき美人(おとめ)と云われる「木花佐久夜毘賣(このはなさくやひめ)」は、火の神であり、富士山を守り、東日本一帯を守護しているという事を聞いた事があります。

 はかなさ、あはれの象徴とされ、大和の国の美、「桜」の女神が、同時に火の神でもあるということが、この春、やっとわかったような気が致します。

 古(いにしへ)の神々は、静と動を兼ね合わせ、その威る(たける)ことを「稜威(いつ)」という言葉であらわしているのかもしれない・・そのようにも感じます。

 目を閉じて、時を超え、過去も未来も、現在をも全てを含む、光と闇の空間に踏み入ることが、もしも許されるなら、叶うなら・・・それを、永遠と名づけることができるなら・・

 思うのです、はるか太古の昔、火も水も土も大気も、人は、おおいなる自然よりいただき、恭しく(うやうやしく)捧げ抱いたのであろうと。

 火と水と土と大気によって、私たちの祖先は、あらゆるものを厳かに作る事を許され、畏れ(おそれ)ながら、大地を耕し、鉄を打ち、子孫を育み、「世界」を作り上げてきました。
神に在ることが常であった「火と水と土と大気」が、いつの時から、人のものとされるようになってしまったのか? 

 「闇」は、限りなく暗く、「光」は、慈しみ、導くように、人を包んでいました。

 思うのです、それは、今も変わることなく、続いているのだろうと・・・


 それでも、花は、黙って、咲いています。

 花が、すべてを語ってくれるだろうと・・・

                                 祈りと共に    飯塚万里
posted by mari at 17:15 | 2011年