吸葛(すいかずら)、どくだみ、やまほうし、竹似草(たけにぐさ)、梔子(くちなし)、泰山木(たいさんぼく)、夏椿(沙羅)、くらら、あじさい・・・・
日本語の美しい純白の花たちの名前です・・
私は、白い花が好きですので、この季節、花を活ける喜びはひとしおです。
群馬の自宅裏の斜面に咲き乱れる吸葛は、その色が、白から黄色へ変化する事から、別名「金銀花」とも言うそうで、甘い香りは何とも言えず、梅雨の合間の妖精のよう・・・
どくだみは裏庭一面に。夏椿は、玄関前の一本がずいぶんと大きく育ち、梅雨明け頃から、朝に開き、夕べには落ちる、無常の印のよう・・・

肌に吸い付くようにしっとりとした空気と、窓から見える松山の霧に煙る幽玄の景色を、只々、想うばかりの今日この頃です
北ドイツ、花の季節は、ほぼ終わりを告げ、林檎の枝々は、頬を染める乙女のように、緑に紅の射した小さな固い実を持ち、花みずきや数々の木々は、緑の狂想曲の時期に入りました。
花を手折り、活ける・・・こちらでのいつものことができるようになるのに、今年は長い時間がかかりました。一心に咲いている花々ですので、良い枝ぶりを慎重に選び、「活ける」という瞬間の緊張感が大好きですのに・・・
無言で咲き競う花々を、そっと、そのままに・・見つめ続けるばかりの日々でした。
やっと、活ける気持ちになった時、自分の心を盛り上げようと、明るい赤や、桃色の花を選び、西洋式に大きく、丸く活けてみたりもしましたが、気づくと、やはり、白い花たちをひっそりと、小さく飾っておりました。
5月10日から、2週間、日本帰国しておりました。
11月12日より、27日まで、群馬県太田市で「飯塚小玕齋回顧展」が企画されており、その準備としての短期帰国となりました。私事ですが、本年は6月に長女が高校卒業を迎え、秋には大学生となりますので、例年の長期帰国は叶いませんでした。
たった2週間、用件に追われる日本での日々の中、玄関前の鈴蘭をいつものように竹籠に活け、また、仏壇にも供えました。鈴蘭は、例年通りの芳しい香りをほんのりと部屋に滲ませておりました。
花は、安らぎを与えてくれるものであり、自己流ですが、花を活けるということは、私の生活の一部でもあります。
「いけばな」の起源は、仏教の供花にあるという説が強いそうですが、「華道」というかしこまった求道(ぐどう)的な意味合いもさることながら、幼い頃、しろつめぐさや、小さな野に咲く名も無い花を摘んできて、コップに挿す・・・そんなことを懐かしく思い出します。

5月、群馬の自宅に帰ってみて、想像するばかりでした日本の空気を吸い、肌で感じた私の思いは、被災されなかった日本中の人々の心の片隅にも、すっきりとしない漠然とした不安感が巣食っているということでした。
ドイツに戻ってまいりましても、そのことは、ずっと私の頭から離れません・・・
あの日から、世界は変わってしまったのだと思います。それは、地球上の何処にあろうとも、同じ事だと感じております。
毎日、ふと気づくと、「美のちから」、「竹のちから」について、考えております。
美しいと感動する、人の心の清らかさ、人の心の強さに思いを馳せております。
でも、正直に申し上げれば、どうすれば、「美のちから」を「いのちのちから」に結びつける事ができるのかが、わかりません・・・?
震災に伴い、花にまつわるお話を幾つか耳にしました。
ガーベラ一輪を配られたお花屋さんの事。
被災地や日本全国で、ひまわりの花の種を蒔く運動。
福島や東北で、菜の花畑を広げようとする人たち・・
被災地を訪問された皇后陛下に水仙の花を差し上げた避難所の方のお話・・・
花は、いつの時も黙って咲いていますが、人はその姿に理屈ぬきで癒されます。
おさなごが摘んだ小さな花にも、名のある華道家が活けた、ダイナミックないけばなにも、自然から頂いた命の光は輝き、見る人々の心に染み入って行きます。
竹工芸の世界で、その大勢を占める「花籠」は、花を活ける為の道具なのですが、茶室での趣きや、現代的な空間に置かれたオブジェとしての花籠の在り方など、思えば、生活が充足した上での竹工芸というものを考察してきた日々をふり返り、今の日本の現状と照らし合わせた時、私の心の中には、言うに言われぬ混乱が生じております。
どうしても、被災地でのご苦労を重ねて居られる皆さまに考えが行ってしまい、安定した生活の中での「いけばなと花籠」が、今という時間から浮き上がってしまうのです。
しかし、「竹」というものは、古来より日本の真髄のような植物で、神事や、古事記の神々と密接な繋がりをもち続けてきた類い稀な生い立ちを持っております。生き物としての「竹」に、もしかしたら、日本人にとっての手がかりがあるかもしれません?
作り手としての竹工芸家も、使い手、鑑賞者としての私たちも、日本人として、この現在の日本の状況を深く鑑みて、新たな一歩を踏み出し、築き上げて行かなければいけないように感じております。それは、「美の世界」と繋がる「心の世界」の課題であるようにも思うのです。
飯塚家においても、初代鳳齋から、祖父琅玕齋、父小玕齋とその精神や技術が受け継がれた長い時間の中に、戦争や、天災など幾多の困難がありました。その時々の流れの中で、それぞれが、日本国民として、また、一個人として、苦難を乗り越え、「竹」を基として目指す境地を忘れずに、生き続けてきたのだと思います。
未曾有の天災、また、人類史上極めて重大な放射能災害ともいわれる今回の災難を、私たち日本人は、どうやって克服して行くのか・・・課題は、余りに重く、困難を極めますが、人の命の尊さと、自然や宇宙の営みの偉大さとを同時に見つめる心を土台として、「竹」という日本独自の分野に関わる一日本人として、また、一地球人類として、模索しようという思いを新たにしております今日この頃です。
願わくば、今、どのような厳しい状況に置かれていようとも、花一輪を大地より頂き、花籠に限らず、手元の何がしかの器に、そっと活け、ほんの一瞬でも心和む時を、全ての方々が持たれる事を、心より念じております。
金銀花 ましろに聖く 微笑みて 人の心に 光たたえん
万里
●「目の眼」8月号、6月27日発売
特集 琅玕齋の真・行・草
里文出版 http://www.ribun.co.jp/me/index.html