2011年06月27日

6月2日付 日本経済新聞全国版文化欄 掲載記事

「竹の芸術、輝かせた祖父」 実用品の域超えた琅玕齋の功績伝える

 竹の存在は日本人にとってあまりに身近すぎたのか、実用の具を超えた芸術作品の素材として用いられるようになったのはそれほど古いことではない。しかし、ある時は強く、ある時はしなやかな特性を生かすと、他の素材ではできない豊かな表現ができる。性質を熟知して、古くからある竹細工を芸術の域に高めた人物がいた。明治中期に生まれ、戦後まで活動を続けた飯塚琅玕齋(1890〜1958)、私の祖父である。

◇ドイツの生活が節目に
 
 らせんの動きを思わせる造形の試みや、糸のように細くした竹ひごを一分のすきもなく組み上げる技法の考案など、琅玕齋は竹以外では表現できない独自の世界を開いた。技と精神を継いで人間国宝(重要無形文化財保持者)になった父の飯塚小玕齋は常々「私は父の代わりに人間国宝の称号をいただいた」と言っていた。しかし、肝心の琅玕齋の仕事が人々の目に触れる機会は、これまであまり多くなかった。
 琅玕齋は私が物心つく前に他界したので、一緒に過ごした記憶はない。しかし、我が家には琅玕齋の香りが満ちていた。その後ドイツ人のもとに嫁ぎ、ドイツのハノーバーで暮らし始めた。海外ではしばしば、日本とは何かを考えさせられる。幼い頃から家にあった竹の芸術が、記憶の中で静かに光を放ち始めた。
    
◇日記や手紙が資料

 2000年に母、04年に父が亡くなった。失うと大切さが身にしみるのは人間の常である。竹は私の心の中で輝きを増した。琅玕齋の本格的な顕影に望むべく、琅玕洞という機関を立ち上げた。
 竹工芸は研究者の少ない分野で、資料集めにも苦労が多い。だが、家に残っていた日記や手紙を読んだり、海外の竹ブームに乗じて作品が流出しないように買い戻したりするなどできることを重ねていくと、琅玕齋の素顔が徐々に見え始めた。
 琅玕齋は、栃木県で竹細工の籠を作る籠師、初代飯塚鳳齋の六男として生まれた。12歳の頃、修業を始め、6年後には、名人といわれた長兄の二代鳳齋の代作を務めるまでに熟練したという。一方、本人は内心、画家を志していた。職人の仕事に飽き足らず「芸術表現」がしたかったのだろう。親が反対したのは言うまでもない。
 突破口は、一族そろっての上京だった。仕事の広がりを求めた飯塚一族は、のちに天皇家に作品を納めるなど発展を続ける。上京時の琅玕齋は20歳。画家を目指す心を竹工芸家への志に置き換え、茶道、華道、書、漢学、俳句、謡曲などの世界を巡り、念願の水墨画も描き始めた。竹の芸術が花開く素地ができた。
 こんな逸話がある琅玕齋が考案した「竹刺編(たけさしあみ)」という技法による作品を制作中、仕事に行き詰まり、上野で開かれていた絵画の名品展をふらりとのぞいた時のことだ。日本画家の速水御舟の「京の舞妓」に目を奪われた。注目したのは舞妓ではなく背景の畳の目だった。あまりに細密に描いている御舟の筆力に奮い立たされ、他の作家の力作には目もくれずに、きびすを返して工房に戻ったという。
 「竹刺編」は、一日に数ミリしか進められない緻密を極めた技法である。御舟の描写は、さぞ力になったことだろう。完成した「竹製筥(はこ)」は。1932年の帝展で特選を受賞した。「(他の作家の)衒気(げんき)やけれんや誤った美意識の中で私の心を引いた」と評したのは民芸運動の柳宗悦だった。
 日本画にはよほど執着があったのだろう。日本画家の川端龍子が描いた「鳴門」という六曲一双のダイナミックな屏風絵に魅せられ、平らに延ばした竹で波のうねりを組み上げた同名の花籠は、琅玕齋の代表作だ。いつの日か、この二作を並べて展示することを、私は夢見ている。
   
◇画帖から在りし日想像
 
 琅玕齋は書道の三体に通じる「真・行・草」の概念を日本文化の本質と見極め、竹で作品を作る際にも意識した。1933年にドイツから来日して琅玕齋の元を訪ね、より造形的な「草」の概念の作品を「モダン」とたたえたのは、建築家のブルーノ・タウトだった。タウトが滞在していた群馬県高崎市の達磨寺洗心亭を琅玕齋が訪ねた時には、琅玕齋が贈った竹の「おしぼりおき」を「香盆」に見立てるなどタウトは茶人のふるまいをしたという。日本の粋で通じ合った二人は、充実した時間を過ごしたに違いない。
 手元にある琅玕齋の画帖を見ると、筆触の脱力感と味わいに記憶にはない祖父の姿を想像する。若い時は竹と格闘しながら、晩年は竹の声を聞きながら制作に臨んだという。これからもその声を伝え続けたい。(飯塚万里=琅玕洞主宰)
posted by mari at 05:29 | 2011年