2010年12月28日

竹の音

20101228-2.jpg 吹雪になりました。
 白い嵐、風の成すがままに、真白き雪の乱舞は、縦横無尽に猛り狂います。

 尺八の音色(古典 鶴の巣籠り)を聞きながら、この原稿を書いています。

 ここは、北ドイツの我が家、12月10日、寒波真っ只中のヨーロッパの大地に戻って参りました。

 凍てる純白の大地、生き物たちは、それぞれの塒(ねぐら)で、ひっそりと息を潜め、何を思っているのでしょう?

 私は、驚いております。

 異国の雪嵐にさえも尺八の音が溶け入る様になって、私の心と魂を揺さぶり、慰め、包み込まれていく事に・・・

 そして、「青い目の尺八奏者」へ、遠くここドイツの地から、囁きかけております。

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 ジョンさん、お元気ですか?

 11月7日、千葉房総でのミニコンサートでは、ありがとう。

いつもの事ながら、竹の音色の素晴らしさと、ジョンさんの魔法にかかってしまった私も含めた会場の人々の熱気は、改めて「竹の不思議」を私に感じさせてくれました。

 音楽は、あまりジャンルにこだわらず、クラシックから民俗音楽、演歌まで聞く私ですが、やはり尺八は、別格かもしれません?

 子供の頃、時々父の尺八を聞いておりましたし、十代の頃は、尺八古典本曲のレコードも、大好きなバッハやピンクフロイド,インドのタブラなどと共に、聞いていましたが・・ 

 日本人の私には、身近な音色ですが、アメリカ人のジョンさんの尺八というのは、お会いするずっと以前から、「何故、どうして?」という思いで聞いていました。

20101228-1.jpg でも、千葉鴨川のご自宅に始めてお邪魔した時に、すぐさま、全てがわかったような気がしましたよ・・・ジョンさん、あなたもやはり「竹の申し子」なのですね?

そんな香りというか、匂いを感じて、いきなり尺八制作や、ジョンさん考案の竹の太鼓のお話など、どんどん本題に入り、竹について語り出したら、止まる所を知らないあなたの姿を拝見して、実はずうっと昔から、知っている人のように感じたものです。

 ジョンさんは、民俗音楽の探求から、運命の導きによって、京都へ辿り着き、都山流(とざんりゅう)師範免許を認可され、雅号「海山」(かいざん)、つまり、ジョン海山ネプチューンと成られたのは、世界的にも有名ですけれど、私にとっては、何だか旧知の「竹友達」のように思っております。

 私の祖父も父も、若い頃から、尺八を心の友として、仕事に行き詰まった時など、尺八一本引っさげて、山野に出て、一吹きしたそうです。尺八を無心に吹いていると、野を渡る風や、天の雲の流れと一体になることができて、我を去り、また、活力を得て、制作に立ち返る事ができると、父はよく話してくれました。だから、たとえ北ドイツの雪嵐であっても、全てを一体化させる不思議な力を醸し出すという事は、竹の自然の力なのかもしれませんね?

 でも、ジョンさんは、ジャズミュージシャンでもあるわけで、「青い目の奏者」として、独自の視点から、尺八や、琴などの楽器、ご自身で工夫された竹の楽器との合奏で、古典本曲の演奏家の顔と同時に新しいジャンルの作曲家としても、東西文化の融合を自らの身の内で、顕現されているという事は、大変なことだと思っております。

 ひと口に、東西文化の融合と言っても、それは、なかなか一朝一夕に成せることではありません。日本の文化は、太古の昔から現在まで、島国の風土という基盤の上で外からやってきた文化を咀嚼(そしゃく)、消化、吸収し、独自の文化を作り上げてきましたが、それは、長い時間をかけて、多くの人々によって成されたことです。

 尺八という楽器も、天平勝宝の頃、百済王より聖武天皇に献上された中国の「洞簫」(どうしょう)が原型で、和名「尺八」となり、時を経て、普化宗(ふけしゅう)の虚無僧(こむそう)たちが、禅の修業でもある吹禅(すいぜん、尺八を吹く事が,座禅と同じく禅の修業となる)として吹いたものが、今日に到っているという事だそうですね。

 水上勉著「虚竹の笛 尺八私考」には、「虚竹」(中国名シージュウ)という、日本人留学僧と中国人女性との間に生まれた混血児が、日本帰国後、尺八を広めたというお話もありますが、尺八の不思議な奥深さは、アメリカ人のジョンさんを30年以上もの間日本に留め置いたのでしょう。

 ジョンさんは、「何も無い」ということの深い意味や、「一音成仏」(いちおんじょうぶつ)ということを常々おっしゃっていますね?

 竹は、植物の中でも、中が空洞という極めて特殊なもので、その用途は、器物や、建材などから、果ては食材までと多岐に渡る、思えば、ほんとうに不思議な植物です。

 その竹が、尺八制作者でもあるジョンさんの手になり、見事な音色を奏でます。

 「一つの音によって、心が動き、涅槃(ねはん)へと導く。」という意味の「一音成仏」は、禅仏教用語ですが、日本文化のあらゆる側面を言い当てているように思います。

 日本文化について、往々にして、異国の人々の方が日本人よりも、はっきりと核心に迫る場合を目にすることのある私ですが、ジョンさんも、尺八を通して、一直線に日本文化に分け入って来られたのだろうと思います。
 
 祖父琅玕齋は、昭和5年の新聞記事の中で、「籠の制作においても、新しい時代の明るさを添える様・・活ける花そのものまで外来的なものも多くなったので、それに合しても少しも隙のないものを心がけることとなるのです。」と語っております。

 時代の流れの中で、原理を見失わずに人間が進化していくことは、時に難しいことではありますが、「竹」という自然素材の導きに任せながら、心の声に従っていくのが、「竹に纏わる(まつわる)ものづくり」の人々の方法なのですね?

 近代文明の渦の中にいて、頭で考えることばかりに支配されがちな私たちも、全てを空しくして、時に自然の中で深呼吸し、尺八の音色にどっぷりとつかってみるのも良いかもしれません?

 今年も、いよいよ残すところ、わずかとなりました。

 ジョンさんは、鴨川ののどかな、陽光あふれる竹林の中で、年の瀬、新年をお迎えになることでしょう? 
 私は、ほんとうに寒く、真っ白く凍てた大地で、今年をふり返っております。

 目を閉じると、竹は、太古の昔のまま、風にそよぎ、雪に撓い(しない)、私たちを見ています。

 どうぞ、お健やかに、そのままに新たな年をお迎えになりますよう・・・

                                       万里 

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 2010年、今年最後の随筆は、千葉鴨川在住の、世界的にも有名な尺八奏者、ジョン海山ネプチューン氏へのお手紙という形で締めくくらせて頂きます。
 
 本年を振り返り、思いは様々ですが、ありのままの私を、竹を通して思索する日々であったように感じております。
 今年も、日本内外で、色々な方々との出会いがありました。この随筆欄に書かせて頂いたのは、その一部の出来事です。

 そして、常々感じておりますのは、人や、ものとの出会いによって、「私」が見えてくるということです。

 今年一年、私の拙文をお読み頂きましたことに深く感謝申し上げると共に、新たな年に向け、皆さまの平安とご健康を祈り、より深く思いを込めつつ、本年最後の筆を置かせて頂きます。 

 皆さま、どうぞ良いお年を・・・

 
 (文中、写真のミニコンサートは、11月7日南房総のギャラリーSFKで開催された「竹(松本波風)と布絵(枕草子より)」展、最終日に行われ、尺八と墨絵の即興もありました。)

 ジョン海山ネプチューン 公式ホームページ
 http://www.awa.or.jp/home/jneptune/
posted by mari at 18:51 | 2010年

2010年11月20日

美の捧げもの

 今秋の日本は、突然の寒気の訪れ、台風一過なれど晴れず・・・などなど
季節の基(もとい)が、狂っているように感じます。

 ヨーロッパ大陸の気候では、しばしば経験がありますが、いきなりの寒気到来や、数日違いの気温の大きな変化など、穏やかな風土、日本では、あまり経験したことのない季節の訪れ方のような気が致します。
 なにやらカクカクして、丸みを失った季節の流れの中で、人の心もやさしさを置き去りに、どこか見ず知らずの次元に行ってしまいそう・・・

 流浪の民の如き生活で、ヨーロッパ、日本往復の私ですが、やはり、生まれ育った国の風土の不具合、地球の不具合には、憂いを感じます。

 さて、先回は、遅ればせの9月のご報告でしたが、今回は、10月4日、やっとちらほら、秋の気配のしてきた銀座でのお話です。

 少しお話が廻り道になりますが、私のホームページ「琅玕洞」の名前の由来から、先ずお話致しましょう。
 
 1910年、東京神田淡路町に日本初の画廊「琅玕洞」が、高村光太郎、道利によって誕生致しました。琅玕の意は、「竹の深い緑色」また「翡翠の色」を表しますが、光太郎さんが、「琅玕洞」の名を選ばれたのは、森鴎外翻訳のアンデルセンの自伝的作品「即興詩人」中のイタリア「青の洞窟」の訳語、「琅玕洞」(最終章)によるそうです。

 琅玕齋の雅号は蘆野楠山翁(篆刻家)によって、若き弥之助(琅玕齋本名)の自立を促す意味からも命名されたと聞いております。その時期は、祖父26歳の頃、1916年頃からと思われます。(因みに「石」を愛した祖父は、別号琅玕齋友石とも名乗っておりました。)

 画廊「琅玕洞」は、わずか1年と短命だったそうですが、当時の白樺派などの思想を背景にした印象派志向の芸術家達や、光太郎の妻となる智恵子の作品発表などもされたそうでして、世間の注目多きことでしたでしょう。
また、1910年は、飯塚家一族が、栃木から上京した年でもあり、二十歳の祖父にも、琅玕洞の名前は認識されていたであろうかと想像されます。

 当時の「洋行帰りのモダンな先鋭的芸術家、光太郎」の理想に基づいた「日本初の画廊」の名前を使わせて頂くにあたり、当然ですが、親戚である高村家に許可を受けに参りました。(4月16日「あはれ」でも触れましたが、高村家は、母方の縁戚筋にあたります。)

1120-2.jpg 私といたしましては、竹の異名、琅玕の二字を使いたかった事が、まず第一の理由ではありますが、亡き父も、私も敬愛する光太郎さんによる「琅玕洞」、私には、何よりこれ以外には在り得ない特別な名称でした。
また、パリ留学中、若き光太郎さんが、異国で感じたであろう日本人としての認識、どんな思いと共に帰国をされたであろう?ということも・・・

 私の内部の汲めども尽きぬ、「芸術と民族と風土と・・・そして人生と」あらゆる思いを込め、「竹」に纏わるお話を主軸にしながら、時空を超えた「ネット空間」での問わず語りをさせて頂く事をお許し下さいませ。

 さて、時は平成・・・
 かつては、文化人が集い、今の世も、数々の文化の発信地である銀座、解体新築中の歌舞伎座を目前の永井画廊の展示空間に、それはありました。(2010年10月4日〜23日、高村光太郎智恵子展  永井画廊にて開催)

  昔、女ありき
  美に生き、愛に生き、
  美に殉じ、愛に殉じ
  世の人、狂いしという
  されど、微塵の狂気の滴もなき
  色彩とコンポジションの乱舞

  その女(ひと)の名は、高村智恵子

 全くの知識なしに「智恵子の紙絵」を目にする時、時を超え、永遠を感じます。

 「ほんもの」と感じます。

 何故なのでしょう?

 光太郎、智恵子のお話は、ご存じの方も多いかと思いますし、「智恵子抄」(高村光太郎著)に詳しくありますので、内容の説明はそちらに譲らせて頂き、精神を病んだ智恵子の闘病生活の中から生み出された紙絵への私の思いを、お話してみたいと思います。

 「美」とは何か? 人の心を打つ美とは?
 古今東西の多くの人々が、「美について」考え記し、語り、奏で、歌い、作り、そして、読み、聞き、聴き、観て(その中に工芸の用も含まれましょう)きました。
しかし、いずれにしても、美とは、「感ずる」ものでしょう?

 そして、その感じ方には、無数の「かたち」があるのだと思います。ちょうど、人の「いのち」が無数にあるように。

 智恵子という女(ひと)の「いのちとかたち」は、光太郎という一人の男(ひと)に向かい、無限の色彩と輝きを放っていたのかもしれません。

 当時、精神を病んだ智恵子は、病室をさながらアトリエの如く、小さなマニュキュア鋏を駆使し、和紙や数々の色紙、包装紙を素材として、一心に創作しました。ただ一人、光太郎のみが、智恵子によって見る事を許された人でした。
病室を訪れる光太郎に、智恵子は、恭しく(うやうやしく)その作品を捧げんばかりに見せたそうです。

1120.jpg 最初は、色紙を四つ折りや二つ折りにし、切れ目を入れ、広げたシンメトリーなものなどから始まったそうですが、徐々にその方法は複雑化していき、花や果物、食膳の料理などの具象的なものから、色と模様による抽象的なものなどまで、多岐に渡った作品群へと、昇華していきました。

 実に、古(いにしえ)より、「何ものかに捧げる」という思いと共に成立し、それが故に光を放つ数々の名作、名品がございます。
太古の人々は、畏れ(おそれ)を持って神に、また大君に、或いは時代を経るに従って、時の為政者に・・・そして、時に「美」は、身近なたった一人の人間へも捧げられ得るものなのかもしれません?

 毎年、10月末から、11月初旬に渡って開催される「正倉院展」の展示物の多くも、やはり時の大君、聖武天皇への捧げものを中心とした宝物(ほうもつ)が展示されております。日本の工人、或いは大陸の工人の手に成る宝物の数々は、工芸美術の粋と称されております。

 私は、智恵子の紙絵も、光太郎への捧げものということができるように感じております。 無作為の作為とでも申しましょうか? 己を空しくする心を持ってしてこそ、「美」が成立出来るというのは、過言と思われるでしょうか?
 そこには、もう、「芸術」という意識すら、消えてしまっているのかもしれません?

 智恵子は、精神を病むまでの日々、日常の営みと実家の没落などの苦悩と共に、絵画への飽くなき探求を続け、遂に絶望へと至った、と光太郎は語っております。

 人の世にあって、日々の方便(たつき)は、避けて通る事ができません。現実と理想と、芸術家のみならず、人間は常に相反する相克の中に生きて行かなければならないのかもしれません?

 「神は、智恵子をして狂わせ、美を顕現せしめた。」私は、智恵子の紙絵を見る度、そう思わずにはいられません。
 ここにも、一人の「美の僕(しもべ)」が、あったのです。

 次回は、秋深き日本、房総館山の地での「異国の民による竹の調べ」について・・・お話してみたいと思います。
 皆さまのおひとり、おひとりに、行く秋の限りなく美しくあらんことを願いつつ・・・
posted by mari at 10:15 | 2010年

2010年11月06日

展覧会情報

buseki.jpg
武関翠篁(ぶせきすいこう)竹芸展

平成22年11月17日(水)〜23日(火・祝)
  *最終日は午後5時閉場
於 日本橋三越本店本館6階美術特選画廊

<略歴>
昭和33年 東京都荒川区に生まれる
父 翠月、重要無形文化財保持者 飯塚小玕齋先生に師事
昭和61年 日本伝統工芸展初入選 以後連続入選
平成11年 日本伝統工芸展NHK会長賞受賞
平成13年 日本伝統工芸展鑑査委員
平成21年度 文化庁文化交流使としてドイツに派遣される
現在   日本工芸会正会員・日本伝統工芸展特持者
posted by mari at 18:18 | 2010年

2010年10月25日

熱中症

 10月も末、ようやく秋らしい毎日になって参りましたね。

 金木犀の香りの短い命もとうに終り、やっと錦繍の便りも聞かれるようになりました。今年は、どうやら二週間以上も季節の動きが遅れているのか、木々も戸惑っていることでしょう? 人の思いも酷暑から、秋へ、なめらかに気持ちを移すことができず、気温と光と心とが、何かちぐはぐなような・・・いつもなら、一年ぶりの日本の秋、私は、心を秋の空気に投げ入れ、思いを遊ばせ、言葉を選ぶ喜びを覚えるところなのですが、なかなかこの随筆に取り掛かる気持ちになれず、帰国後もう二カ月近くたってしまいました。

 とはいえ、9月から10月にかけての出来事を、遅ればせながら、お知らせ致したいと思います。
 
 今夏の日本の暑さ、聞き及んではおりましたが、9月2日、成田空港に降り立った私には、いきなり北ドイツとは20℃以上の気温差が、まるで、空気が何トンもの重さで押し寄せてくるような、空恐ろしい感じが致しました。

 本年、9月4日は、父小玕齋七回忌にあたり、今秋は、例年よりやや早い帰国でしたが、父亡き後の満6年を、読経と共に墓前で深く思うには、いささか過酷な強い陽射しで、目眩を起こしかねない息苦しさでした。

 熱中症という言葉が、これだけ巷に溢れた夏も珍しいですが、外気温と湿度の成せる、あまり見舞われたくはない病というか、症状でございますね?

 さて、幸い、私はその熱中症で寝込むような事態にはならずに済みましたが、実は、「別の熱中症???」に見舞われてしまったのです。
そして、できる事なら、この熱中症には、たくさんの方々に、患って頂きたいものと、心密かに願っております・・・

 9月15日正午、私と、父小玕齋のお弟子の大木淑恵さんは、新潟駅に降り立ちました。予想に反し、新潟の気温は高く、29℃、越後の秋とはいささか言い難い暑さでした。

 向かうは、敦井美術館・・・

 展覧会情報でもお知らせ致しましたが、9月27日までが会期でした「近代の水墨画展」には、琅玕齋作、花籃「魚の舞」、「虫の音」、「蝉しぐれ」、「むすび」と掛け軸の竹図が展示されており、鉄斎、大観、御舟、華岳をはじめ、古今の水墨画の名品の数々が、事務局長でもあられる学芸員の渡辺新太先生の監修のもと、夏をテーマに大変充実した内容の展示でございました。私たちは、渡辺先生のご親切な解説により、一点一点をじっくりと拝見することができ、さながら日本美術の個人授業を受ける観でありました。
 花籃は、それぞれに祖父らしい作風のもので、敦井美術館創設者の敦井栄吉氏が蒐められた琅玕齋作花籃13点の中から、その銘が夏に因む前記3点と、平らにのばし折り曲げた白錆竹(琅玕齋考案の技法 通称「のし竹」)の掛け花籃、掛軸は、いかにも祖父の筆運びの水墨画、銘「脩竹」。

 水墨も、どれも素晴らしい作品ばかりでしたが、特に、私の大好きな日本画家村上華岳の筆になる「山二題双幅」は、蒼味を帯びた墨色の山を背に、黒々とした松の枝ぶりが見事な、左右一対の名品でした。年齢を重ねたせいなのか、華岳の柳図などに見られる深さ、妖しさに通ずる美に、魅了される私ですが、初めて拝見したこの作品にも、引き込まれるようなものを感じました。

 たっぷりと時間をかけて、ちょうど会席料理の美味を味わうような塩梅(あんばい)で、見事なお料理の数々にお腹も膨らんできた、と思いきや、その時点で、まだ次なる「美の献立」が待っているとは・・・展観後、お茶を頂いての談笑中には、予想も致しておりませんでした。
 さて、件(くだん)の「美の熱中症」は、ここから、いよいよその症状の本番となって参りました。

 敦井美術館収蔵作品の飯塚家三代の作品の中から、鳳齋2点、琅玕齋3点、小玕齋2点を
作品調査として拝見することができたのです。過去に、出光美術館、或いは個人所蔵家など、毎回、飯塚家の作品調査のたびに、多々受ける衝撃に、勝るとも劣らぬ今回の衝撃は、まさに「熱中症」と名付けたくなるようなものなのでした。

 血のつながりによるものなのでしょうか? また、父や祖父、曽祖父の手に成る作品を、血縁の私が、讃えるような事は、少々はしたない事なのかもしれません?
でも、それは、古今東西の美に出会うとき、私を等しく襲う症状ですし、皆さまの中にも、きっと美術品のみならず、何か美しいものに出会って受ける衝撃をよくご存じの方もいらっしゃることと思います。

 今回も作品調査という事で、何よりも恵まれておりましたことは、通常は、美術館で陳列ケース越しでしか見る事の出来ない作品を間近に、手にとって見る事が出来たことでした。花籠に限らず、工芸品は、本来、使い愛でるということを基礎に成り立っている美術品ですので、触った感触、手に取った時の重さ、或いは軽さ、そして、その用途によって、花籠は花を活け、盛器には、お菓子やお料理を盛り込み、茶碗でお茶を喫し・・等々、最終的には、使ってみて作品が完成するわけなのです。その味わいの最終段階の花を活けることこそ叶いませんでしたが、手にとって、撫でる、重さを感じる、また、落とし(筒)を取った作品の内部「見込み」を見る、そして、圧巻は、底を見るといった特別と申しましょうか、本来の楽しみ方が許されたのですから、竹工芸作家である大木さんはもとより、私には、亡き父や祖父の肌に触れることができるようなこの上ない機会であったわけです。

 拝見させて頂いた作品中、特筆したいものは、琅玕齋作花籃、銘「田子の浦」と同、銘「黄縅」(きおどし)であります。
「田子の浦」は、1989年、栃木県立美術館で開催された「飯塚琅玕齋展」以来の対面でして、制作年は1956年(昭和31年)、琅玕齋66歳最晩年の頃の花籃です。

 以前ご紹介してあります栃木県立美術館学芸員の鈴木さとみさんの論文(2010年2月20日 「真・行・草のお話」参照)でも、この作品について触れられておりますが、銘「田子の浦」のよすがを逆三角形の作品の姿から、「逆さ富士」なのではないかという推論もあり、例によって、銘と作品の関連性に思いを致す楽しみ方のできる花籃の一つです。
また、銘もさることながら、琅玕齋の作品中、何点かの作品が二重箱(内箱は、桐または杉材、外箱は漆塗り、黒柿材など)に収められておりますが、二重箱仕立てものは、そのどれも、祖父の思い入れの強い作品でして、この作品も最晩年の作品中の注目の一点であることは、間違いないでしょう。

 材は、鳳尾竹もしくは、根曲竹を染め、四方にのし竹を渡し、底部の意匠は、私は今回はじめて認識したのですが、実にダイナミックなもので、「耳」の作りの創意も類まれなものでした。琅玕齋作品中の逸品の一つといえましょう。

 1989年2月開催の「飯塚琅玕齋展」(於 栃木県立美術館)カタログの画像を掲載させて頂きましたが、言葉によって、作品の見事さをお伝えするのは、毎回至難の業ですが、「黒漆(こくしつ)の霊峰」とでも申しましょうか? 琅玕齋の作品中、富士を作品銘に詠み込んだものに、文字通り「霊峰」という鳳尾竹(煤竹)の花籃がございます(栃木県立美術館所蔵)。これなどは、逆さ富士に対して、本来の富士の頂の姿を手の側面に取り入れた、美しい作品です。富士は日本の代名詞、古今の工芸作品に富士を銘にしたものは、多々あるかと存じます。

 田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りつつ 
                       山部赤人 万葉集巻三 三一八
 
 もし、この歌に基づき、琅玕齋が作品「田子の浦」を制作したと仮定致しますと、この歌のクライマックスである「富士の高嶺」は、今回私が驚き入った高台(底部)の意匠にあるかという事が出来るように感じております。富士の頂の角ばった形態を、祖父は「つぶし」の技法によって、叩きのばした平竹のばっさりとした切り口によって表現し、飾った時の安定感と同時に、切れ味の良い、より強い作品の存在感へと繋げていったのではないかと考えられます。
 いつの日か、この作品が、皆さまのお目によって味わって頂けることを願って止みません。

 さて、もう一点ご紹介したいのは、花籃 銘「黄縅」(きおどし)です。
「縅」とは、日本の甲冑の製造様式の一つで、元来、緒を通す「緒通し」の当て字だそうで、鎧の腹部などに用いられている絹の色糸による技法の名称です。「平家物語」で、平実盛が合戦で身に着けていた「萌黄縅」(もえぎおどし)が有名です。

 敦井美術館では、毎年五月、端午の節句には、この花籃に、館御所蔵の徳岡神泉作「菖蒲」図をとり合わせて、展示されるということで、まさしく素晴らしい展示をされていらっしゃる事と敬服いたしております。ここに掲載させて頂いた写真は、1952年7月、第8回いけばな同人会(於 新潟小林デパート)で展示された時のものでして、活けられたお花と花籃の形との絶妙のバランスが見てとれるかと思います。
 
 制作年は、1951年(昭和26年)、祖父61歳、第7回日展招待出品したものです。

 技法は、「のし竹」を中心に全面上部と側面に日本の意匠である「七宝繋文」(しっぽうつなぎもん)を配しております。鎧の形態から想を得たことがおわかり頂けるかと思います。
七宝繋文の部分は、芯に籐の環を用い、材質が柔らかい根曲竹を巻き繋いだ技法で、手間のかかる大変繊細な技術です。同様の技法による花籃「つるむすび」は、熱海のMOA美術館に収蔵されております。また、幅約33pの大変に太い、孟宗竹を平らにのばした胴部の白錆竹は根曲竹と共に、年月を経て、とても美しい飴色に成っております。

 そして、次回、いつの日か展示の時、皆さまがご覧になるポイントの一つなのですが、この作品の右側面の七宝繋文の手前上部の一目が、飛ばしてある(外してある)ことがございます。残念ながら、あえて一目外した祖父の真意を直に問う事は、もう叶わないのですが、琅玕齋の制作上の意図については、この写真の裏書に、正面からの撮影で「わざと斜にして七宝を一か所外したところが消えたことは残念でした・・」と写真をお送り下さった方からのお言葉が記してあり、祖父はこの件に関しては、何らかの説明をしていたことがわかります。
このような事は、作品を仔細に見ていけばまだまだ沢山あることでしょう? また、飯塚家の作品に限らず、芸術作品には、しばしば「作家の暗号」のようなものが隠されているものです。

 美術、工芸作品の鑑賞方法は、色々ございますが、それは、人生に於ける旅の一齣のようでもあります。旅には、人や物との出会い、味わい、感動によって、最終的に自分自身と出会えるという意味もあるように思います。

 敦井美術館でのまるで魔法のような時間は、あっという間に過ぎ、時ははや夕刻にならんとしておりました。作品拝見、調査を終え、私と大木さんは熱に浮かされるような、まさしく「美の熱中症」にうずくような頭と身体を、クールダウンせねばと、新潟の海風にあたりに、海岸へと向かいました。

  夕日の佐渡
  はるか向こうは、中国、シベリア、ヨーロッパ

  太古より横たふ佐渡ヶ島

  天の父、祖父、多くの美のしもべたち


 有限な人の命の中から、永遠の美が生み出されるわけですが、もう一つ、美に殉じた類まれな女性のお話は目前の11月に向けて、早々に次回お話させて頂こうと思います。

 先ずは、皆さま、錦繍の訪れの中、遅い秋の空気を胸いっぱいに楽しまれますよう、私も、やっとちらほら赤味を帯びてきましたもみじの梢を目に、ここで一先ず、筆を置かせて頂きます。
posted by mari at 02:49 | 2010年

2010年08月15日

精霊

 今夏の暑さは、記録的な酷暑で、日本の皆さまには日々お辛い事とお察し申し上げます。北ドイツも7月下旬頃まで、35℃を越え、時に38℃以上の日もありましたが、漸う暑さの峠を過ぎ、8月を迎え、やっといつもの爽やかな高原のような毎日になって参りました。まだまだロシアなどでは、連日の猛暑が続き、多くの被害が出ている模様で、地球全体の悲鳴を聞くような思いも致します。

 日本では、冷房が欠かせない毎日でしょうが、日本で当たり前の冷房機器が、こちらでは一般の住宅には備わっておりませんので、35℃を越える暑さともなりますと、いくら湿度が低くても、ちょうど熱波のような具合になり、辛うじて扇風機で涼をとるしかありません。

 私が幼い頃の東京の夏は、やはり扇風機が主流でしたが、近くの根津神社や、上野不忍池の縁日などに出かける途中の下町では、縁台で浴衣姿に団扇の夕涼みが、此処彼処に見られる時代でした。打ち水がされ、夕闇せまる町角では、花火をする子供たちのざわめきと、日が落ちて、幾分暑さがやわらぎ、ほっとする街並みの背景の、近くには風鈴の音色、遠くには蜩の「カナカナ・・」が、それぞれ相俟って、真夏の夕べの忘れられない情景です。

 日がとっぷりと暮れた神社の境内、縁日の屋台は、そこここの発電機の音と、裸電球の少し熱い、みかん色の明かりの連なりが、老いも若きもいざない、幼い私は、目を輝かせ、あちらの金魚すくい、わた菓子、カルメ焼きやベッコウ飴、こちらの輪投げなど、心を躍らせて、ざわざわとした人ごみに紛れながら、父の手をしっかりと握り、あれが見たい、これが欲しいと心躍らせたものでした。

 しかし、この夏の異常な暑さは、おそらくそうした日本人に当然だった季節の余情のようなものを斥ける、狂った何かを感じさせるような気も致します。

 また、北ドイツでは、私が住み始めた20年ほど前の夏は、透明なすっきりとした陽光と、木陰に入れば、すっと、たちまち汗が引いていく、さらりとした心地よい気候でしたが、今回の猛暑は、日陰でじっとしていても、じわっと汗が滲み、木陰の読書などゆっくりと出来ない、今までにない経験を致しました。こちらでは、庭先や、ベランダなどで、朝食を取ったり、夕刻など、バーベキューを致しますが、7月中はさすがに控える家庭が多かったようです。

100815.jpg 気候風土が、その国の文化や人の心を育てて行くがゆえに、おもむきのある複雑な四季の中で、日本の柔らかい文化の流れが作られてきたのでしょうが、これから、地球規模で気候変動が起こってくるとするなら、必然的に日本人の気質や、文化に様々な影響が及んでくるかもしれません。また、地球規模の異変は、ロシアの火災をはじめ、パキスタンや中国,ポーランド(国境近くのドイツでも)の水害、南米の冬ながら時ならぬ積雪と厳冬など、各地に未曾有の災害をもたらしております。文明の発達により、束の間、人間が忘れ去っていた「人間の無力さ」というものを思わずにはいられません。

 夏の暑さも、昔は日本人の知恵で、美しい凌ぎ方が出来たのでしょうが、これだけ異常な暑さに見舞われるとなると、すでに団扇の優しい風や、風鈴の音色など、数々の細やかな方法は、多くの都会の日本人の日常では、悠長な昔日の風景の中に埋没してしまって、ただでさえ即物的な方向に向かってしまっている生活が、どんどん殺伐としたものに変わっていくのでは、と危惧されるのは、考えすぎでしょうか?

 ただ、「方丈記」などを読みますと、鎌倉時代初期の日本も、天変地異や、人身の憂き世は世の常で、文中に漂う鴨長明の厭世観も無理からぬことかとも思われます。時を経て今、経済の不安と共に、人の力を超えた自然のおおいなる教えに耳を傾けよという「天の声」なのかもしれません。
そして、無力に打ちひしがれる人心には、それぞれの時代時代、それぞれの風土に、あらゆる宗教が生まれ、人々の心に安寧をもたらしたのでしょう。日本においては、仏教が、遠く支那、朝鮮からもたらされ、時代を経て、その宗旨、形態を変化させて来たことは、周知の事実です。


 さて、日本は盂蘭盆会の季節を迎え、それぞれの皆さまも故郷へ帰られ、ご家族揃っての行事に臨まれた方が多いかと存じます。各地方での風習の違いで、ご先祖が帰っていらっしゃるお迎えの仕方は異なるようですが、私の小さい頃の東京では、お盆の入りの前にお墓を浄め、入りの日の夕刻は、各家の門口でお迎え火を焙烙(ほうろく)におがらを燃やし、門戸を開き、お仏壇へお通り頂くように致しました。幼い頃より、お迎え火、また送り火のしきたりは、当然の事として、毎年の夏の行事でした。火を熾す時の手順やら、炎が消えかかった最後には、ミソハギに水を浸し、静かに火を消す作法など、毎年、目に致しておりましたので、何をどう教わるでもありませんでしたけれど、この時期、日本に居ります時には、自然と致しております。 清められた仏壇には、我が家では、必ず蓮の花を活けておりましたが、よくある茄子や胡瓜の、牛、馬などはなかったようです。東京千駄木にあった祖父設計の家には、二階の茶室の隣りが、三畳ほどの仏間で、お盆中には、お坊さまが読経におみえになって、読経の後のお客間でのお話には、父の横に座って、かしこまってお坊様の法話をうかがっていたように覚えております。何をどう話されたかは記憶が在りませんが、お盆期間中には、祖父をはじめ、お顔を知らないご先祖様が我が家に滞在していらっしゃるということが、不思議なような、当然のような、幼心の思い出でございます。

 今、お盆の時期には、日本に居られないことが多うございますので、私としては、心苦しい思いも致します。閉め切られた群馬の家の仏壇を思い、ただでさえ、遠く日本を離れ、時に心細くもあり、懐かしくもあり、色々な思いを抱きますが、この時期は、我が家の宗旨は浄土宗ですが、仏様は何千里、何万里、どれだけ遠いところでも、何箇所でもたちまちにおみえになるという事をよいことに、こちらへ来て頂き、形ばかりの仏前にお線香を上げて、お許し頂くといったところなのです。

 しかし、宗教というものは、不思議なもので、ヨーロッパの地では、キリスト教が、また、その他の国々では、数々のそれぞれの風土に培われた宗教が、人々の心を支えているわけで、普段の日々では、意識致しませんが、人々はやはり、神や仏といった人知を超えた何かを頼りとしているのだと思います。 

 戦前、祖父琅かん齋が、東京根岸の家の工房で仕事中の事です。その頃は、弟子達は階下の仕事場、祖父は二階と別れた工房だったそうで、ある時、二階から、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」とお念仏の声がするので、一人の気の利いた弟子が、お線香を用意して、二階の師の所へ、持って上がったそうなのですが、襖を開けた途端に、その場の張り詰めた空気と、琅かん齋の余りに厳しい背中を見て、一歩も工房内に入って行けなかったという話を、父からよく聞かされておりました。実の所は、祖父は丁度、その仕事の難所に入っており、一目一目を息を殺すほどの集中をしていたそうで、思わず、念仏を唱えずにはおられなかったという事なのです。

 祖父も、日本の古より続く工人の末席を汚しているわけですが、日本の工芸、とりわけ竹工芸は、竹という自然物を扱う仕事ですので、己を空しくして、竹の導きに全てを任せて、禅などで言われる「無心」や「放下(ほうげ)」の境地が必至であったのだと思われます。また、もう一歩踏み込んで、申し上げる事を許して頂くならば、日本の工芸のみならず、古からの名品と称される作品をものした、有名無銘の作り手達は、きっと、それぞれ、己を離れた境地をこそ抱きつつ、創作をしていたのではないでしょうか? 

また、物づくりをなりわいとしない普通の人々の方便(たつき)の中にも、真摯に生きる事を求めて行く一瞬一瞬には、必ず我を忘れ、一心に成っている時があって、そのように生かされている私たちの支えに感謝するための一齣として、ご先祖さまをお迎えする盂蘭盆会のような機会が与えられているのかもしれない、そんな事を思います。 

 今日まで、一見、人間の理の勝ったように見受けられる現世にあって、私たちが実は、理では計りきれない「何か」によって生かされていることを知る機会は、なかなかありません。日本の山川草木に宿る「何か」、日本に限らず、地球を、そして宇宙をつかさどる「大いなる力」を、精霊の行き交いの儀式である盂蘭盆会のときに思ってみることも、何がしかの意味を持つのではないかと、日本から遠く離れたドイツの地で、つらつら思い巡らす夕べでございます。

 まだまだ残暑厳しい毎日とは存じますが、皆さまどうぞ呉々もご自愛くださいませ。



  「花籠展」 監修:斎藤正光
  2010.8.21 〜 8.29
  於 銀座一穂堂サロン
    月・休廊 11:00〜19:00
    電話:03−5159−0599
    http://www.planup.co.jp/ginza_j.html


posted by mari at 19:48 | 2010年

2010年07月18日

七夕

  たなばたさま             作詞 権藤花代 林柳波 / 作曲 下総皖一

  tanabata.jpgささの葉 サラサラ
  のきばに ゆれる
  お星さま キラキラ
  金銀砂子

  五色の  たんざく
  わたしが 書いた
  お星さま キラキラ
  空から  見てる

 日本は、断続的な豪雨とか? 七夕の天の川は見るべくもなく、被害など最小限でありますようお祈りしております。と申しましても、現代では、七月七日に天の川を見られる確率は、大変少ないようです。本来の七夕は、旧暦七月七日ですので、ひと月遅れのわけなのです。現在も、日本各地では、旧暦で七夕祭りを行う所が多いようですね。

 c一年に一度だけ、相見(あいまみ)えることしか叶わない織女と牽牛のお話は、誰もが知るところですけれど、そもそもは中国から奈良時代に伝わったそうで、日本の「棚機津女(タナバタツメ)」の伝説と合わさった風習とか? お盆行事の一環であり、七夕は、棚機、棚幡とも書くそうです。

日本人なら、子どもの頃から親しんでいる、「笹の葉」に「五色の短冊」も、笹は精霊の依代(よりしろ)で、五色は、中国五行説の緑・紅・黄・白・黒をいうのだそうです。
 織姫、彦星の「星あい(七夕の別名)」のお話は、幼稚園などで聞かされ、そのままを素直に受け止めていました。
 我が家では、前日に、父がどこからか(その頃は竹屋か、花屋で毎年手に入った)笹竹を軒先に立て、短冊にお願い事を書き、笹の葉に結びつける時の様子は、小さな幼い手指と浴衣の袂、笹の葉の薄緑のさやぎ、紅や黄、白、空色など、五色に留まらずたくさんの色の短冊が風にたなびく・・・美しい情景として、眼の裏にはっきりと残っております。

 夕べに空を見上げても、すでにその頃でさえ、東京には天の川の見えるような空はなく、また大概は曇天か雨空だったと思うのですが、不思議と天の川を見上げている幼い自分の姿が浮かびます。「織姫と彦星は、無事に会えたのかしら?」幼心に、見上げた空には、たしかに天の川は見えていたのでしょう?
 七夕に降る雨を、催涙雨(さいるいう)または洒涙雨(さいるいう)という事は、後年知りましたが、雨が降り、天の川の水嵩が増して、逢瀬が叶わない時、二人が流す涙が地上のわたくし達に降りかかっているのかと思えば、この日の雨も幾分趣が違いますね?

 また、鵲(かささぎ)が、織女星と牽牛星を会わせるため、翼を並べて天の川に渡すという鵲橋も、漆黒の闇に輝き渡る星々の川に、黒味を帯びた羽毛の連なりが、一筋の橋掛かりを描く、儚く美しい情景です・・・

 このゆふべふり来る雨は彦星の早こぐ船の櫂(かい)の散りかも  (万葉集巻十)

 さて、七夕飾りの笹の葉は、精霊の依代(よりしろ)の意ということですが、この依代とは、古来、神霊が依り憑く目印のことだそうで、主に常緑樹の榊など、また神輿(みこし)・山車(だし)などのことも云うようですが、いけばなの起源をこの依代とする説があるようです。
多くの依代は、天空高く、垂直に立てられた形態を持ちますが、立花(たてばな)が原型とされる日本のいけばなは、世界のフラワーアートの中でも、「丸く」飾らない特殊性を持っているように思います。(このいけばなの形態の解釈は、フランスの作家で文化大臣も勤められたアンドレ・マルロー氏の「日本文化の垂直性」の考察においても、触れられておりますが、「依代」に関して言及があったかどうかは、定かではありません。)
また、依代の中には、髭籠(ひげこ)と呼ばれる竹ひごで作られたものや、薬玉(くすだま)など、竹に関連したものも、いくらかあるようでして、依代と髭籠についての考察は、国文学者、歌人でもある折口信夫(釈超空)の著にあります。

 しかし、学術的な研究もさることながら、やはり、竹の持つ、独特の美しさは、自然の中に神を見出す日本人の心に理屈抜きで沿うような、「分明(さや)けしき趣」を持つような気が致します。
 
   汲水に七夕竹の端しづか    皓火

 七月も半ばとなりながら、梅雨明けやらぬ日本は、殊の外、湿度も気温も高いようですが、北ドイツは、湿度こそ低いながら、連日35℃以上の酷暑が続いております。

 数年前の七月中旬、ギリシャ、地中海に浮かぶロードス島で十日ほど過ごした事があるのですが、連日40℃に届くかという、灼熱に近い空気は、めまいをもよおすほどで、白亜の石造りの建物の輪郭と水平線のくっきりとした風景と共に打ちのめされるような思いが致しました。
 
 いつもながら、「輪郭のくっきりとした風土」のヨーロッパで、今は、乾いた夏に何とか仁王立ちで、我が身を保たせながら、やわらかな笹のさやぎに思いを馳せるきょうこの頃です。

 来月は、いよいよ猛暑の八月の日本、どうぞ皆さま、お身体をおいとい下さいませ。どんなお話をさせて頂くか、たぶん、精霊のお話が相応しいかと・・・・?
 
でも、それは、しばし、午睡の後に・・・



※お知らせ
 
婦人画報9月号 8月1日発売 アシェット婦人画報社
特集「世界が見初めた竹しごと」

琅かん齋作 変竹盛籃 琅かん洞表紙掲載の花籃 掛花の三点ほか、何点かの竹籠が掲載されます。

posted by mari at 22:33 | 2010年

2010年06月24日

滲み

 関東は、梅雨入り。
群馬の我家の梅の樹、深く香る濃いみどりの葉影には、見えつ隠れつ、丸(まろ)かせ、たわわ・・・
 
少しずつ大気はまったりとした重みを増していき、やがて、感極まって溢れる涙のように、天から地上へと慈雨の時がやってまいります・・・

日本の雨は、重い雨、ヨーロッパの雨は軽い雨。傘もささずに歩くなど、梅雨の日本では考えもつきませんが、乾燥したヨーロッパでは、雨など無きが如くに、さっそうと歩く人々の姿をよく目にします。
ヨーロッパの地に雨季はありません。6月は、一年の内でも爽やかさひとしおの季節、人々の心は、短い夏へと、精一杯解放されていきます。夏至の頃の北ドイツ、夜の帳は、やっと9時、10時頃に訪れます。

とかく鬱陶しい梅雨ですが、常日頃、日本文化は「水の文化」と感じております私は、ドイツに長く住むようになってから、心地よいとは言い難い母国のこの季節を、時折、昔とは異なる見方をするようになりました。
人の五感は、その心に数々の作用を及ぼしますが、現在只今の私が、2010年の梅雨を、まず感じますのは、「水分をたっぷりと含んだ緑色の匂い」です。
「緑立つ」は、春の季語ですが、新緑の緑は、目に清かに「立ち」、梅雨の濃い緑は、芳しく「立ち上がる」といったおもむき・・・

 また、遠く雨にうちけぶる松山の稜線は、大気に溶け行くように、静かな空気の流れを表します。水分を多く含んだ空気は、「ものの境目」を暈(ぼか)します。
ヨーロッパでも、雨の日など、霧にけぶり、ぼんやりと神秘的な風景に心を奪われる時もあるのですが、その多くは晩秋の肌寒い朝や夕刻で、たちまち消えてしまう一瞬ばかりのような気がいたします。そこでは、「ものの境目」は「物の境目」として、くっきりとした世界に常住し続けるのです。
「ものの境目を暈す日本の湿潤な風土」は、当然のことですが、数々の芸術に独特の作用を及ぼしております。或いは、人の気質に反映されるが故に、藝術に、文学に、世界でも稀な性質を与えていると云うべきなのかもしれません。
「暈し」が、最も顕著に表れているのは、水墨画の世界でしょう。その深い成り立ちは
難解ですが、日本を考えるにあたり、私としては、どうしても外す事の出来ないものの一つとして、勉強してみたいと思っております。今は、感覚として、水墨の「滲み」の中に、自己を読み取る鍵が隠されているのでは、と思うばかりです。

「風土」は、それぞれの国の文化を生み、国民性を作り上げていき、現在の私たち日本人は、今日までの長い日本の歴史と気候風土によって育てられた結果なのでしょうが、この梅雨特有の鬱陶しさは、深く考察する気力を削ぐところがあります。正直に申し上げるなら、久々の梅雨の鬱陶しさに、「湿潤なる文化、水の国、日本」と声高に言えない重さを感じているのも事実なのです。

古来、日本人の生活様式は、「夏を旨とすべし」、家屋の作りも、木や紙や竹を主体に、冷房など無い昔は、数々の工夫がなされてきました。今は、古い日本の生活様式を昔どおりに守っているお宅は数少ないことでしょうが、夏障子(簾障子)や、簾、葦簀(よしず)などの風通しを良くする工夫、石庭に響く鹿威しや水琴窟(すいきんくつ)、風鈴などの涼やかな音色など、今は、身近になかったり、懐かしく思い起こしたりするものばかりです。
逃れようのない高温多湿の日々を、聴覚や視覚、また味覚などでしのぎ、あるいは楽しもうとする日本人のきめ細かい神経を改めて思います。

201006.jpgさて、そうした日本の夏、いけばなでは、まさに竹籠の出番となります。我家では、床の間の掛け花に、今を盛りのどくだみの白い可憐な花を活けております。裏庭一面に咲くどくだみ、薬草で、独特の強い香りゆえ、茶花としては八重咲きのものを用いるようですが、私は、白い可憐な姿が好きですので、一重でも気にせずに活けます。
夏椿(娑羅樹)の蕾もふくらみ、朝に開き、夕べには散ってしまう儚い白い影を愛でるのも、この時季の楽しみの一つです。

竹籠は、夏のしつらいとして、ガラス器などと共に多く用いられ、涼やかな空気を醸し出してくれます。琅玕齋は、かつて白錆竹を生活雑器の笊などから、一段上に引き上げ用いました。すっきりとした材の色は、行や草の形と相俟って夏の花を生き生きとさせます。また、年を経て、白錆色は飴色へ変化して参りますので、夏に限らず、見る側をおもむきの深い世界へと誘ってくれるのです。

雨にけぶる山の峰々、たっぷりと水を含んだ緑の木々、深く潤った苔の柔らかさ、湿潤な季節が私たちに与えてくれる数々の風物たち・・・

私は、数日後に帰独を控え、名残惜しく、心をこの空気に滲ませ、「自己の境目」が暈された今を味わっております。いきなり、ヨーロッパの乾燥した夏に抛り込まれてのご報告は、次回させていただきます。みなさま、気候不順の折柄、どうぞ呉々もご自愛なさいますよう、お祈り申し上げます。

posted by mari at 21:02 | 2010年

2010年05月27日

新緑の季節

 群馬の我家の庭を前に、この原稿を書き始めました。
この時季の匂うが如き新緑の乱舞に、しばし、圧倒されております。
いったい緑色にいくつの色があるのだろうと思うくらいに、微妙に、黄色がかった、白を混じた、赤みを帯びた…緑の狂想曲、数限りない造化のみわざとでも言えばよいのでしょうか?

 湿度の高い日本の気候ですが、この時季に限った、束の間の爽やかさは格別で、北ドイツの初夏に近い空気を感じます。
肌をすべるような芳しい風、遠く近く響きあう鳥のさえずり、重なるように鶯の谷渡りのソロ、そして、何より、透き通るようにかろみを持って、身体の隅々に染み込むような陽光…気づくと、わが身も新緑に染まってしまっているようにさえ思います。
 
 日本帰国直前、4月下旬、北ドイツにも漸く眩い(まばゆい)日々が到来しておりました。空気の乾き具合は、日本の5月の頃とほとんど変わりはないのですが、「眩」の意そのものの如く、目がくらくらして見えないほど、陽光の強さは、我が身を圧倒致します。冬の寒さと昏さが、現存在を突き付ける事と違う形で、ヨーロッパの陽光は、しばしば私を不安にするのです。

 今、私は、我家の庭の新緑を目の前にして、深い安堵感を感じております。しかし、それは、年齢に伴うこちら側の問題であるのかもしれません?
十代の頃、圧倒される新緑のみなぎる力と、競い合うようなわが身のエネルギーに感じ入った記憶がありますが、あれから数十年、ふと「新緑の毒素」という高村光太郎の詩を思い出しました。


 新緑の毒素
                    高村光太郎

  青くさき新緑の毒素は世に満てり
  野といはず山といはず
  街(ちまた)の垣根、路傍の草叢
  置き忘れたる卓上の石の如き覇王樹(さぼてん)に至るまで
  今は神経に動乱を起して
  ひそかに廻る生の脈搏
  狂おしき命の力
  止みがたき機能の覚醒に驚きつつ
  溢れ出づる新緑を
  その口より吐き出したり
     (後略)

 鮮やかな緑は、まるで、こちらの「生命力を測る物差し」のようでもあります。

 何人の人生にも、一度はある、「新緑の季節」。
祖父琅玕齋は、竹工芸を藝術の一分野として確立させるべく決意し、琅玕齋友石の雅号を掲げ、青雲の志を持って上京しましたのが、二十歳のころ。父小玕齋は、いまだ油絵画家になるべく東京美術学校で藤島武二先生の薫陶の元にあった二十代前半でした。

 芸術、とりわけ工芸の分野では、四五十代を「若手」という場合がございます。それは、工芸分野においては、特に技術の習熟が極めて重要と見做される為かもしれません。
「芸術家の一生では、感動する心を持ち続ける事が肝要」とよく申しておりました父が、私によく話してくれたことの一つに、木彫家の平櫛田中先生のエピソードがございます。田中先生百歳の時、30年分の材料を買い込まれ、「男盛りは百から百から。わしもこれからこれから。」とおっしゃったというのは、有名なお話です。

 さて、現在の竹工芸の分野では、三十代から、大御所の八十代の諸先生方まで、それぞれご活躍されております。その中でも三十代の若手、父小玕齋の最後の弟子にあたるのは、女性の作家です。しかし、女性竹工芸家の数は極めて少なく、父が所属しておりました日本工芸会においても、正会員は、いまだ3名のみ、準会員、出品者を含めても10名ほどということです。
 大木淑恵さんは、父最晩年に我家の門をたたかれ、十年ほど、竹工芸の道を邁進されています。素直で、真摯な人となりながら、内に強さを秘め、まさに「竹工芸家の新緑の季節」真只中にあります。

201005.jpg


 作風は、のびやか、流麗、父の常々の教えをしっかりと護られ、「作品の格式」を外さないよう、日々努力されております。
 作家には、色々タイプがあって、大木さんの場合は、控え目で抑制の利いたお人柄で、どちらかというと寡黙な女性です。しかし、作品では、静かに熱いものを語ろうとしているように感ぜられます。作家の感受性は、さまざまな表われ方をいたしますが、何れにしても、竹工芸家は、心の底の「何か」を、「竹の力」を借りて表現しているのですね。

 5月、竹は、触れれば指が染まってしまいそうな琅かん色を湛え、その身を上へ上へ、天に向かって伸びて行きます。
私は、何れの齢(よわい)にあろうとも、毎年巡ってくる新緑の瑞々しさに、我が身を測りながら、少しでも高みへ近づいて行きたいものと改めて思うきょうこの頃です。

来月は、いよいよ梅雨到来、日本の「水の文化」の源泉の季節、雨に纏わるお話ができればと考えております。
posted by mari at 02:49 | 2010年

2010年04月16日

あはれ

 今年の花の便りは存外早かったようですが、寒暖の差が激しく、花冷えで、日本の皆さまは、長い期間桜を楽しまれていらっしゃることでしょう?
 
 北ドイツも、漸く春の光と空気が満ち満ちて参りました。我が家の庭では、ミラベル(杏やプラムに似た青い実をつける)の白い花が咲き競っております。
 私にとっては、「桜もどき」のミラベルですが、こちらではあくまでも「歓喜の春を高らかに謳い続ける花」なのです。

 私は、数年前まで、ドイツ在住ながら、幸運にも毎年続けて何回かの「まことの桜」を目にする機会に恵まれました。
 
 父が逝って、翌々年の春、花が見えるようになっている自分に気づいたのは、東京、神田川沿いの桜を前にした時でした。
 
 まるみを帯び、湿度を含んで・・やわらかな日本の春の空気は、父の死という重圧から私を守るかのように包み、まるで「許された証」の如く、視線の向こうには、やさしい薄くれないの儚げな連なりが、幾重にも幾重にも続いておりました。

 あはれか、花か・・・私には、桜が、あはれそのものであるように感ぜられてなりません。
 
 花が我れか、我れが花か・・・

 『世の中を 思へばなべて 散る花の わが身をさても いずちかもせむ  西行』

 皆さまのおひとりおひとりが、それぞれの桜をご覧になっていらっしゃることでしょう。

20100402.jpg
 
 さて、作家にとっては、作品がその時の自分を語り、鑑賞者は、時に、作品の「銘」に作家の心延えをはかることができるかもしれません。
 
 父小玕齋が身罷りましたのは、2004年(平成16年)でしたが、死の二年前の第37回人間国宝新作展に出品した花籃「千引の石」(ちびきのいわ)のお話です。
 
 この作品銘は、父の作品の中で、唯一文学を下敷きにしたもので、出典は「古事記 黄泉の国」の段にあります。
 黄泉の国へは黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)を通らなければなりませんが、そこにはこの世とあの世の境に、千人の力を持ってしてやっと動くほどの大岩があると云われており、それを称して「千引の石」というそうです。
 
 父は、この花籃「千引の石」をこの世とあの世との己が「結界」と見立てたのかもしれません。

 85歳で亡くなりました父の晩年は、病いと孤独との闘いであったと言っても過言ではありません。2000年(平成12年)、皮肉にも共に癌を患い、闘病にあった妻(私の母)に先立たれたのは、何よりも父にとっては打撃となり、その後の二年は創作の意欲を失っておりました。家人もなく、一人娘である私は日独往復の中、限られた期間しか傍に居られません。
 「芸術家は孤独なもの」と常々自戒しておりました父でしたが、母を亡くしてから己の死までの四年間は、娘にはあからさまに語らずとも、筆舌に尽くしがたいものがあったであろうと偲ばれます。そして、父自身も癌を抱えながらの日々、いっときは、私の元、ドイツ移住をも考えましたが、日本人である竹工芸家の宿命として、日本の風土に留まる事を改めて決意し、させた作品が「千引の石」という事もできるかと思います。

 銘「千引の石」は、「情」(じょう)の滾(たぎ)った銘でもあったわけです。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、
201004001.jpg
父の敬愛してやまぬ心の師でありました。また、光太郎は私の母方の親戚筋という事もあり、我が家では、いつも「光太郎さん」と呼ばせていただいていました。若い頃、私も彫刻を自分の仕事としようと考えていた時期があったこと、幼い頃から詩を書くことが好きだったことなどから、親子でよく話題にもいたしました。光太郎さんの「濁りの無い芸術家としての姿勢」は、父にとっては、自分自身の指針となっておりました。因みに、4月2日は、光太郎さん命日「連翹忌」(レンギョウキ)にあたります。
 
 光太郎さんの美術学校卒業制作に、「獅子吼」(ししく)という作品がございます。これは、若き文学青年でもあった光太郎さんが、その思いの発露として、還俗せんとする僧侶を作品化したといわれております。この頃、他に泉鏡花の影響下の作品などもあったそうです。しかし、後年、「文学的になることで彫刻を病ましめる」、「彫刻を護るために詩を書く」というような事を述べ、造形の純粋を説いておられます。   
(随筆「自分と詩との関係」高村光太郎著参照)

 父は、工芸、とりわけ竹工芸は、「具象ではなくあくまでも抽象の世界である宿命を持つ」と申しておりました。それ故、具象彫刻家である光太郎さんのお考えとは、別の意味も含め、その作品群には、作品の用途、形態のイメージによる銘ばかりをつける事を常としておりました。
つまり、銘の持つイメージの内に作品の玲瓏さが失われる事を避けたと言い換えることも出来るかと思います。

 日本の工芸作品の多くは、桐や杉箱などに収められ、「箱書き」として、作家名、落款、そして、銘を墨書いたします。作品は、箱書きをもって完成する、ということができるでしょう。箱書きの一字一句に、その作品のすべてが集約されているわけです。
 従って、「千引の石」の箱書きの時の父の胸中には、復帰第一作を完成できた安堵感と共に、父の人生初めての「おもむきの異なる銘」への矛盾のような、複雑な思いが去来していたであろうと、私は感じております。

 病や、身内の死というものが、どれだけ人に打撃を与え、また、人間である芸術家の心の奥底に数々の苦悩や葛藤の物語があるかということを、私は身近に「千引の石」を見るたびに思わずにはいられません。
 
 高村光太郎という芸術家の人生においても、妻智恵子の存在は深い影を落としました。また、思想上の問題もあって、晩年を岩手県稗貫郡太田村の山小屋での独居自炊生活もありました。そのような例は、哲学者西田幾多郎における、妻子の死など、数々の例があることと思います。しかし、創作の過程で、作家はあらゆる苦悩を超克していかねばならないのでしょう。
(詩集「智恵子抄、続智恵子抄」高村光太郎著、随筆「わが子の死」西田幾多郎著参照)
 
 苦悩あってこその「美」であり、「哲」であるのかもしれません。

 「あはれ」いう言葉は、嘆賞、親愛、同情そして悲哀など、しみじみとした感動の時に発する「あぁ」という声を語源としているそうです。人間誰しもが抱える「あはれ」、日本人の私にとっての「あはれ」は、花であり、秋草であり、風であり、数限りない風物や出来事へ、「うつしみの我」が行きつ戻りつ投影されていることをいうような気がします。

 「あはれ」は「情」に発する言葉でありますが、人間、そして万物の根底にある「無常」への入り口に、「あはれ」も位置しているという事が言えるのかもしれません。

 心の中に、はらはらと花吹雪が見えます・・・

 季節は、とどまることなく、緑あざやかな時へ・・・そろそろ私の帰国が近づいて参りました。
 次回は、「無常」のお話は、ひとまず秋まで置いて、新緑の候に相応しく、竹工芸の世界の若き人々たちのお話などできれば、と思っております。

「智恵子抄 高村光太郎と智恵子 その愛」展
    2010.4.29〜7.11
    於 菊池寛実記念 智美術館(www.musee-tomo.or.jp)

posted by mari at 23:31 | 2010年

2010年03月15日

見ることの旅

 ぴーん、と音がしそうに張りつめていた空気が、少しずつ、少しずつ、緩んで行きます。時折、すっきりと雲が割れ、射し込む光の密度を感じます、まるで大気の緩みと反比例していくように・・・
 遠く、かすかに聞こえていた小鳥のさえずりは、日々重なり合い、まだ裸ん坊の黒々とした枝から枝の、あちらへ、こちらへ・・・

 春の訪れは、しかし、三寒四温、行きつ戻りつですね。

 目に耳に肌に、私たち日本人もヨーロッパ人も、身体全体で春を待ちわびています。

 ドイツでは、復活祭の頃から、春到来を思い、うさぎの可愛らしい人形、色とりどりの卵などの飾りつけを始めますが、その根底には、キリスト教という宗教があることは皆さまもご存じでしょう。
 しかし、日本人はどちらかというと、五感を通して、自然を味わい、より強い身体感覚で春を待ちわびているように、私は感じます。それだけ複雑で、多種多様な自然に恵まれた風土であるという事が、一つの大きな理由なのかもしれません。

 日本は、上巳の節句(桃の節句)も過ぎ、ゆったりとまあるい空気、菜の花色、桃色、萌黄、緋色、若竹色・・・雛の衣の重ねの微妙な色具合・・・日本の色には、実に趣の深い名前がつけられております。
私の好きな名前は、「天色」(あまいろ)という名の水色ですが、試みに竹に纏わるものを並べてみますと、青竹色、老竹色、煤竹色、藤煤竹色、銀煤竹色・・などなど、特に煤竹に何種もの名前があるのはおもしろいことです。

 ところで、香道では、「香を聞く」というそうですが、香りをかぐことを、「聞く」という言葉で表す日本文化には、不思議な重層性があるような気が致します。

 さて、琅玕齋の作品に「不聞」という銘の作品があるのですが、この一週間ほどの、私の心の中で起きていた出来事のお話です。

「不聞」は、1925年頃の作、祖父三十代半ば頃のもので、白錆、四つ目の飛ばし編で、細い耳がついた草の籠です。時代を経て、白錆が飴色に変わり、たいへん味わいが出ています。現在、この作品は栃木県立美術館に収蔵されております。

 琅玕齋の作品には、当時の他の竹芸家と違って、趣のある銘がついた作品が数多くあります。ちょうど茶道具に古より、色々な銘がつけられたことに相通ずるところがありますが、茶道具では形に由る以上に文学的な側面に由る例(和歌からの引用など)が割合に多いようですが、琅かん齋の作品には、形態やイメージによる「作品の『香りを聞く』」ともいえる要素がより強いように、私には思われます。

私は、いつも祖父の作品を、「旅する」ような想いで、見つめておりますが、それは、父とは違い、私が2歳の時に亡くなった祖父の記憶が、無いに等しいせいかもしれません。
(展覧会などで絵画や彫刻作品などを、「旅する」時も、「見る」という行為のうちに《たとえ、ガラスケースで隔絶されていようと》「触れる」「聞く」などの感覚を総動員して、作者の思いを抱くように鑑賞するのが常ですが、やはり、血のつながった祖父であるが故、その欲求が強まるのかもしれません。そして、何本もの私の旅の道筋の行先は、どうやら「日本」のようなのです。)

「不聞」への私の旅は、和魂漢才への旅でもありました。

イ. 不聞とは、読んで字の如く、「聞かず、聞かざる」という意味ですが、その意味のみに重点を置いて、調べていくと、儒教四書の一つ、「中庸」の教えの中の、「不睹不聞」(見ざる聞かざる)の含まれる一節が目に入りました。その要旨は「人は、誰にも見聞きされない独りの場での鍛錬が大切である。」という理(ことわり)として解釈できます。

ロ. また、狂言「不聞座頭」では、留守居の耳の不自由な太郎冠者と盲目の菊都(きくい)が、それぞれの弱点をなぶりあうという演目。

ハ. いちばん、一般的な例としては、日光東照宮などでよく知られた三猿「見猿・不聞猿・不言猿」。(因みに「三猿」の起源は古代エジプトにあるそうです。)

ニ. そして、最後に私は、名物茶入の「不聞猿」(きかざる)に行き着きました。
私はこの茶入の実物を残念ながら目にした事はなく、写真だけですが、細い笹葉の如き耳が着き、上部のくびれた瓢形で、ハの不聞猿の姿に似ているところから銘がついたそうです。(瀬戸後窯、宗伯窯。香雪美術館蔵)

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 日頃、言葉に形に、こと「日本」となると、夢中になってしまう私の性格の一端ですが、琅玕齋の作品銘に関しては、どうやら、その形態から、ニの線がいちばん濃厚なように思います。茶道具の銘は、所有者が後に命名する例が多いそうですが、茶入「不聞猿」は、作者宗伯が三猿の不聞猿に見立てての命名との由来があるそうです。ただ、宗伯に関しては記録があまり残っていないそうで、詳しい事は不明です。

 また、琅玕齋も、自作の銘について記録を残しておりませんので、あくまで、孫娘の独り言、主観ということになってしまいますが、宗伯作の茶入による「二重の見立て」が行われたことになるのかもしれません?

 祖父は、幼少より漢学を学び、また、青年期に画家を志し、後年は竹工芸を「芸術の域にまで高めよう」と決意、そのための修養として、華道、茶道、謡などをはじめ、日本文化の粋を学びました。そして、それ故、前記のイ、ロ、ハ、ニが、浮上してきたわけです。

 ただ、ここで私が述べたいのは、「銘の出所の追跡劇」という事よりも、祖父に限らず、日本人である作者たちの「心延え(こころばえ)」の事なのです。
学者でも研究者でもない私は、私自身の中に流れる血の案内のみによって、これまで、「美の彷徨」をしてまいりました。それ故、感覚だけを裏づけにした未熟な「思い」でしかないかもしれません。

 見るということの奥深さ、まだ足りない「目の鍛え」を日々感じております。

 古より、現代まで,絵画、彫刻、工芸、そして文学においても、日本の芸術を支えてきた数多くの芸術家たち,その末席に祖父琅玕齋、そして父小玕齋があります。

 次回は、私にとって、いちばん身近な芸術家、父小玕齋の「心延え」について、昨年11月の講演会での内容を中心にお話したいと思います。

posted by mari at 01:43 | 2010年

2010年02月20日

真・行・草のお話

 北ドイツ、今年の二月は、如月の意味する「草木が更生すること」とはほど遠く、毎日が雪、また雪の日々でした。
 例年になくやはり寒い冬の日本、関東も何度かの雪に見舞われたようですが、梅の便りもちらほら、馥郁とした甘い香りに満ちた早春の訪れもそろそろでしょう。

 ドイツでは、自宅に面した歩道の雪かきは、各家の仕事で、雪かきを怠ったことで歩行者が転倒した場合には、その家の住人の責任となり、賠償しなければならない決まりになっています。それ故、こちらに戻ってからの私の日課に、日に二回の雪かきが加わりました。
日ごろ、運動不足の私としては、体操のつもりで毎日の雪かきをしておりますが、連日の事となりますと、いささか辛い思いもして参ります。幸い、軽く乾いた雪で、まるで焼塩のようですので、こまめに箒を用いての作業は、掃き進める箒目が、うまく、リズミカルに行けば、きれいに揃って、角地に建つ我が家の二面の歩道が、頭を同じくした連続の砂紋のようになり、私は、たった一人で、その出来ばえに自己満足致します。

私に取りましては、たかが、雪かき、されど雪かき・・・砂紋などと、大仰な物言いですが、単調な作業に密かな喜びの工夫も、私の中の日本人の血の成せる業かもしれません・・・笑。

 砂紋とは、枯山水の白砂の箒目の事ですが、枯山水の庭で、「水」を意味しているそうです。禅寺で、瞑想や修行の場でもある枯山水、自然の深山幽谷をうつした世界での思索は、修行には不可欠のものなのでしょう。

 さて、前置きが長くなりましたが、前々回、ブルーノ・タウトさんのお話を少しさせて頂きましたが、タウトさんお好みの「草」の花籠のお話です。

 書道で云うところの楷書、行書、草書、華道、茶道その他、能などの芸道、日本建築など、日本文化のあらゆる場面に、「真行草」の概念が登場します。

竹工芸に、「真行草」の概念を始めて導入したのは、琅玕齋ですが、竹のおもむきを直截に表すことのできる「草」の籠への思いは、際立っていたようです。
  
注…真の籠 形の整然としたもので、編み方も正確かつ美なるものであり、一見これが竹かと思えるほど精巧なもの。
  行の籠 真よりは荒くともよく、色彩も時代色とか、白錆があるが、あくまで正確さを保つ。
  草の籠 もう一つ格を外したもの。不規則な編み目、形をゆがめてもよしとする。


 芸術家のひとりびとりが、その創作の過程で、あらゆる「ものごと」から、霊感の如きひらめきを受ける事はよく起ることですが、祖父の創作生活の中でも、度々そのようなことはあったようです。
 
 その一例として如実な作品に、花籃「鳴門」1930年頃作があります。これは、真竹の白錆を材とする、祖父が考案した「つぶし」という技法による作品ですが、幅広の真竹を半分に割り、それを木槌で叩き、平らにしたものを、一気呵成に組上げて行く、大変にダイナミックな作品で、草の典型的な仕事といえましょう。祖父は、1929年(昭4)、青龍社第1回展に出品された画家川端龍子の二曲一双屏風『鳴門』から想を得たといわれております。現在、とあるお寺に収蔵されておりますが、いまだ、分野の違う二つの作品が、並べて展示されたことはありませんが、私は、いつの日かそれがかなうことを心の底で願っております。

注…白錆竹 青竹を油抜きして、天日干しして、乳白色にしたもの。時を経るに従い美しい飴色に変化して、大変に美しい。
 
 また、祖父の「草」に対する思い入れを表す肉声が文章になって残っております。

ある日、祖父が、郷里栃木の太平山に清遊した時のことです。今もありますが、松乃屋という茶店の軒先から、鮮やかな緑に見入っていた時のことです。(太平山は、「陸の松島」と称され、その山腹からの眺望は素晴らしく、祖父青年時代には、尺八を携え、よく登ったそうで、後年念願の山荘を建て、戦時中は疎開生活をおくった所でもあります。)
 「・・・ふと崖下をみた、その時、崩れるような崖の中腹にだんご籠がひっかかっている、・・・よくみると、そのだんご籠の中から一本の豆づるが生々と伸び育っている、その秀ひでた風情自然そのままの姿相が私の芸魂にどんどん迫るのでした、あれだ!竹の籠が曲がっていようと、真直ぐであろうと、調和があるところに常に美はある、・・」

注…だんご籠 太平山では名物の団子を籠に入れて売っていた。

 物づくりの端くれの私にも、その時の祖父の、心躍るような興奮と同時に矛盾なく押し寄せる確信を得た精神の静寂が、わかるような気がいたします。

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 書の世界では、王義之が、古代の篆書、隷書に対して、真(楷書)、行書、草書の三書体を確立したといわれております。日本に中国から漢字がもたらされ、その漢字からひらがなが作られたということが、一般に言われております。中国においては、「真」に最も正当な格式が与えられているのに対して、日本における外来文化の受容のあり方は、特異な様相を呈し、「行」、或いは、「草」の美しさを尊ぶ傾向が現れております。茶道の世界で、唐物道具から和物道具への流れがありますが、現在の竹工芸は、やはり、主に室町時代に煎茶とともに伝来した唐物籠に端を発します。時代を経るにしたがって、それぞれの作家の創意工夫による作品が作られるようになっていったわけです。

 茶道の世界には、抹茶と煎茶の双色があり、その両者ともに、花入れとして竹器を用いますが、煎茶道では、竹筒花入れは、あまり用いられず、籠花入が愛用されております。
「見立て」という事が、抹茶の世界ではよくありますが、竹器では、利休などの時代に、魚籠や若菜籠などの民具の形のよいものを茶席に用いたことなどが、その初期の例になります。
   
  私は、「見立て」とそれにつながる「やつし」という日本独特の方法に、「草」の世界を理解する道があるように感じます。ただ、見立てにしても、やつしにしても、あくまでも、物を用いる、或いは鑑賞する側の意識であって、創作する作家の側からの探求という事が、いまだ成されていないのかもしれません。祖父が、だんご籠を見た瞬間の「感覚のほとばしり」について、今後も考察して行きたいと思っております。

注…やつし みすぼらしいようにする。目立たぬように姿を変える。不完全な状態の美をやつしの美という。歌舞伎の和事の一種。

 建築家であったブルーノ・タウト氏は、祖父の作品を「モダン」と称されたそうですが、日本滞在中の3年足らずの間に十数冊の日本文化に関する著作を残されています。「日本美の再発見」に象徴されるように、その論調は、単なる異国人の日本趣味のような生易しいものではなく、透徹した美意識に裏付けられたものだと思います。祖父が、高崎達磨寺の洗心亭を訪れた時、差し上げた「おしぼりおき」を「香炉おき」に見立てられ、煮しめ皿を菓子器として、供されたことなどは、茶人のふるまいと言えるのではないでしょうか?

 取り立てて、茶道の稽古をされていなかった筈のタウトさんが、短期間に茶の湯の奥義のようなものを会得されたことは、驚嘆に値することかもしれませんし、日本美を見抜いた芸術家、建築家としては、当然だったと言えるのかもしれません。

 とはいえ、難しい事はさておいて、私たち、現代の日本人の生活には、昔風に言うなら、「異国」のものがあふれております。今ほど、異文化がむき出しで氾濫していた時代は過去の日本の歴史にはなかったのではないでしょうか? しかし、いにしえの先人が、異国文化を手に入れ、咀嚼し、新たな日本文化を作り上げていった方法は、意識するとしないとに関わらず、私たちの根底にあるはずだと、私には思えてなりません。
 「真行草」などと堅苦しく感じられる言葉ですが、私は、自分なりに、普段の生活の中でこれからも色々な事を考え、感じて行きたいと思っております。

 日本の風土とは異なるドイツの地にあって、年齢を重ねたからなのか、最近は、私の中の日本人の血を感じることが、多くなってきた様に思います。しかし、異国にも四季があり、そこに住む人々は、私たちと同じ人間です。それぞれの持ち味を理解し、時に補い合い、地球という一つの星に共に生きる同胞として、自国の文化をよく知り、異国の文化を正しく理解して行くことが、これからの時代の私たちの成すべき課題の一つなのかもしれません。

 二月も半ばを過ぎ、今日は、ほんとうに久しぶりの晴れ間になりました。しばらく続いた雪の日々も、一休み、時は確実に春へ向かって過ぎて行きます。

 遠く、裸ん坊の木々の梢のどこかで、かすかに鳥のさえずりが聞こえます。

※琅かん齋の真行草に関しては、詳しい研究論文として、下記を参照されたい。

 飯塚琅かん齋に見る近代竹工芸の芸術性−「三態の概念」の自覚と造形表現に注目して
 鈴木さとみ著 [PDFファイル]


posted by mari at 01:13 | 2010年

2010年01月15日

寒中お見舞い申し上げます

 寒中お見舞い申し上げます

 みなさま、お元気で新年をお迎えになられましたでしょうか?

 私は、昨年10月に帰国後、年末に不注意にも風邪をひいてしまい、とうとう日本での年越しとなってしまいました。でも、久しぶりの日本のお正月、風邪気味ながらも、感慨深く過ごす事ができました。
今冬は、世界中が寒波に見舞われ、ヨーロッパも、日本も大変に寒いお正月に成ったようですが、私は、日本家屋の寒さに震えておりました。

 さて、我が家では、毎年、父が青竹で一重切の花活けと取箸を作るのが、慣わしでした。今年は、私が日本で年越しと聞いて、父のお弟子さんだった松本破風さんが、お手作りの花活けと取箸を、送って下さいました。
  
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 床の間に、白玉椿、柳、朱漆の大杯に金俵の飾り付けが、例年の我が家の室礼でした。父を思いながら、庭の白玉に鋏を入れ、水をたっぷり含ませた青竹に活ける時の清々しい気持ちは、ほんとうに日本人に生まれた喜びといえましょう。ドイツでは、青竹はもちろん、白玉椿も手に入りませんので、例年、一抹のさびしさを感じていた私としては、久々の感動でした。
 
 それぞれのお宅で、きっと新春の飾り付けをなさったことでしょう。松や竹の緑色、白玉椿の純白、千両万両の赤、金銀の水引など、目にも鮮やかな日本の色ですね。

 西欧では、クリスマスが大イベントで、クリスマスイブの4週間ほど前から、飾り付けや、お菓子作りなどを始めます。昨今は、クリスマスが定着した日本ですが、古来12月13日を正月始めとして、やはり色々な準備を始める吉日としているそうです。
ドイツのお正月は、大晦日に花火とカウントダウンをするぐらいで、私は、子供たちのために、あり合わせの材料を駆使して、「御節もどき」を作るのがやっとのことでした。

 暮れの、慌ただしい空気、台所から匂う煮物の香り。そして、元旦の晴れ渡り、引き締まった空気。北ドイツの暗く長い冬の元日とは、打って変わって、日本の明るい年の始めでした。

 みなさまもお感じになることがあるかと思いますが、季節に香りがあること、それぞれのお家の香り、そして、国の香り、匂いというものがあります。

 琅かん色の鮮やかさ、ひっそりと清々しい白玉椿のかすかな香りは、まさしく日本の新春を感じさせてくれました。

 9月以来、しばらく筆が止まったままでおりましたが、新しい年になり、また心を引き締めて、色々な私の思いをみなさまにお伝えして参りたいと存じます。
昨年秋の講演会のこと、ドイツで開催された「籠師」展のご報告、また、途中になっております「真行草の姿」について、などなど、次回から、また宜しくお願いいたします。

posted by mari at 02:34 | 2010年