2009年09月20日

ドイツ人建築家ブルーノ・タウトさん

 北ドイツの8月は、そろそろ秋を予兆させる風が吹きます。まだ、太陽は高く、光に満ちた日々ですが、どことなくさびしさを孕んだ風が、木々の枝をかそけく揺らします。白秋、光の粒子が、より細かくなっていきます・・・

 さて、今日は、日本にぽつねんと佇んでいたドイツ人のお話です。

 高崎市少林山達磨寺の敷地内に、「洗心亭」という小さな庵があります。
御存知の方もいらっしゃると思いますが,1934年から約2年間、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトさんが住まいとしていた庵です。

この庵の裏に続く山道は、タウトさんが好んで散歩をされた道と聞いております。数年前、私は初めてそこを訪れ、あたりを散策したのですが、木々や、草々の醸し出す雰囲気がドイツのそれに似ているなあ、と感じました。なるほど、ここなら・・

 当初、タウトさんは、2年もの月日をこの極めて日本的な小さな庵で住み続けることになろうとは考えておられなかったようですが、トルコのイスタンブールの大学に招聘され、日本を離れる時まで、この庵での生活を楽しまれたそうです。いいえ、楽しまれたと言っては、いけないのかもしれませんが・・・

 北ドイツ、ケーニヒスベルグ出身のタウトさんは、日本の冬を大変に愛されたそうですが、夏の湿度の高さには往生されたと、タウト高弟の水原徳言氏は、書いておられます。
 タウトさんが、1933年に訪日された経緯については、時のナチスからの逃亡ということがあります。しかし、一説に言われるように、ユダヤ人であったという事は、間違いです。結局、終焉の地、イスタンブールで1938年、58歳の若さで亡くなられ、故郷の土を踏む事は二度となかったわけですが、きっと日本での3年間の内、故郷の香りのする高崎の2年間は、安らぎを見出そうとした時であったかもしれません。日本での、「日本美の再発見」などに代表される著作や、工芸試験場におけるクラフトのデザインについてなどは、専門書に場を譲るとして、祖父琅かん齋が洗心亭を訪れた時のお話を致しましょう。

タウトさんの日記によると、1933年(昭和8年)12月24日、東京根岸の琅かん齋宅を始めて訪問とあります。この時からタウトさんと祖父の交流が始まるのですが、我が家には、タウトさん自筆の色紙、手紙などが残されています。
 そして、一枚の素朴な煮〆皿、初夢や、一富士、二鷹、三なすびの図柄の素朴な絵柄のお皿が、日本の我が家の飾り棚に、大切に飾られています。
 日記には、記載が無いのですが、祖父が洗心亭を訪れたのは、1934年、季節はわかりません。床の間には、大雅の掛け軸、祖父が差し上げた竹籠に香炉をしつらえた飾り付けで迎えられたそうです。

 お菓子が盛られ、出されたその皿を祖父が誉めると、「気に入られれば、進呈しようと思っていた。」というタウトさんのお言葉に、祖父は、たいそう感じ入って、日本人の風雅の心を、よくぞ理解されていると、驚嘆したそうです。

 タウトさんが、どうしてそこまで日本のもてなしの美学を理解されていたのか?
鉄斎、大雅、小堀遠州を好み、自筆の書簡は巻紙に筆で、ところどころに絵を入れ、横文字で書かれてはいても、一幅の掛け軸を見るようです。

 昨年秋、私は、タウト高弟で、当時タウトさんのお世話をなさっていらした水原徳言氏の高崎のお宅に、シュパイデル教授のお供で伺いました。90余歳の水原氏から、タウトさんと祖父の対面の様子をうかがいました。
 タウトさんは、真行草の「草」に当たる自由で造形的な籠を好まれたそうです。
これは、欧米人の多くの好みに共通する所でもあるのですが、割合にどちらかというとオブジェや彫刻的な鑑賞ができる、荒い編み組みの籠になります。タウトさんは、建築家ですから、構築性の美という意識を持っておられたのではなかったかと、私は思っています。祖父の数々の仕事の中でも、草の作品には素晴らしいものがあり、また祖父自身も「草の籠に、作家の力量が発揮される」と申していたそうです。

 前述の高崎の洗心亭での床の間に香炉とともに飾られていた竹籠は、残念ながら、その所在はもう不明ですが、祖父は、当時「おしぼりおき」として差し上げたと申しております。我が家におしぼりおきとして使用している籠がありますが、「箕」という農具をモチーフとして、デザインされたものです。タウトさんに贈られた籠は、おそらくこれに似た物ではなかったかと想像されます。
 この籠は、「行に近い草」或いは「草に近い行」という事ができます。

この「真行草」という概念を竹工芸に初めて導入したのは、祖父ですが、書やいけばなの世界でいわれる概念と同じです。

 次回は、少し「真行草の姿」について、また、祖父とタウトさんのことなどの続きのお話をしてみたいと思います。

 日常の雑事に追われ、この原稿を中断している間に、季節は9月下旬へと変わってしまいました。北ドイツに野わけのような風の吹く今日この頃です。10月は、また日本に帰国致します。
posted by mari at 00:00 | 2009年

2009年09月12日

ヨーロッパの夏

 あまりに陽光がまぶしすぎて、辛くなります。
 ヨーロッパの夏です。

 日本から帰独すると、空港に19時頃到着します。北独、夏時間の19時は、日本の午後3時から4時くらいの明るさでしょうか? 7月、日は長く、夜9時半、10時頃まで、明るいのです。
 空港に降り立ち、まず感じるのは、さらっと、すべるような空気の軽さと、風景の細部まで、くっきりと見通せる開放感でしょうか? 思わず、深いため息をついてしまいます。十数時間前まで、重くまとわりつく、湿度の高い日本の空気を背負っていた身体に、「陽光の乱舞」と「物の存在感」が攻め寄せてきます。

 ヨーロッパ大陸に、日本人が一人、ぽつねんと立ちすくんでいます。
今まで「日本の湿度」に守られていた自分が、いきなり丸裸にされたような不安感・・・

 竹は主に、アジア、日本などの湿度の高い環境に生息している植物です。そして、竹工芸も、瑞々しい日本の風土が育てたといっても過言ではないかもしれません。
 もともとは、煎茶の隆盛に伴い、室町時代に中国からもたらされた唐物籠に端を発しているのが、現在の竹工芸ですが、歴史を遡れば、縄文時代の遺跡に竹籠の部分が発掘されており、日本人と竹とが、工芸作品に留まらず、密接なつながりを持っていたことは、知られています。現代の日本人の生活の中で、竹の雑器の出番は少なくなってしまいましたが、私たち日本人には、竹はほんとうに身近なものでした。

そして、私はというと、この世に生まれ落ちた時から、竹はいつもそばにありました。あまりに、そばにありすぎた存在ともいえるのでしょうか?
 子供の頃、人から父の仕事について質問されると、もじもじしながら、「竹工芸です。でも竹細工とは違うの・・」幼い頃から、今日まで、ずっと折りある毎に、このことを言い続けてきたような気がします。

 ひるがえって、ここヨーロッパの地では、果たして日本の竹工芸がどのように見られているでしょうか?

 今年3月、私はベルギー、オランダ国境に近いアーヘンという町で、「竹工芸について」講演をさせて頂きました。
ちなみに、アーヘンにはユネスコ世界遺産指定のアーヘン大聖堂があり、ローマ帝国時代から温泉保養地として発展した町で、落ち着いた美しい町です。
聴衆は、独日協会の20名余りのドイツ人の方々で日本旅行の経験者ばかりで、皆さん、4月に訪日を控えていらっしゃいました。
 どんなお話をすれば皆さんが興味を持って聞いて下さるか、ずいぶん思案しましたが、そもそもこの講演会の機会を作って下さったシュパイデル教授とのご縁が、「ドイツ人建築家ブルーノ・タウトと祖父琅かん齋の交遊」をテーマとしてでしたので、飯塚家の三代に渡るエピソードなどを中心にお話させて頂きました。
 でも、やはり何よりも、実物を皆さんご覧になりたい、それは当然のこと・・・
お話をしながら、スクリーンに飯塚三代の代表的な作品群の写真を映しましたが・・やはり、写真だけでは、竹工芸のすばらしさは伝えきれません。

 ドイツの私の自宅に、たった一点置いてある父小かん齋の「竹小筥」を大事にかばんに忍ばせ、持参し、講演会終了後、何冊かの作品集と共にお見せました。
この作品は、7センチ角、高さ5センチほど網代編の漆仕上げの作品で、父の作品の中では、最小の可愛らしいものです。

No2_photo.jpg

「何て、繊細で美しい!!! これが、竹で出来ているの?」
「これは、どう使うものなのでしょうか?」
「このような細かい編み方は、どのようにして出来るのでしょう?」

物珍しい異国の竹工芸・・・
彼らも、竹で作られた籠などを、全く目にしたことがないわけではありません。
東南アジアで作られた民芸の品々の中には、民具として素朴な味わいを持つ物もあります。それらは、現代のアジアブームと共に、ドイツ人のインテリアとして使われる事も、多々あります。
 ここで、またしても私の頭をよぎるのは、「竹工芸は、竹細工とは違うの。」ということでした。

 アーヘンの早春の夕べ、空気は少しゆるみ、とっぷりと日は暮れているのに、私は、何故か日本の東雲のあわあわとした薄明かりを思い、ふーっとため息をつくのでした。
 
 次回は、ドイツ人建築家、ブルーノ・タウトが、竹工芸にどんな思いを抱いていたか、そして、現代は・・・そんなお話をと思っております。
posted by mari at 00:00 | 2009年

2009年08月28日

琅玕洞にアクセスして下さる皆様へ

 琅玕洞にアクセスして下さる皆様に、当初から、何かその時々のお知らせをさせて頂きながら、飯塚家や、竹にまつわるお話、時に少しだけ脱線して、おもしろいお話などもお伝えしたいとずっと考えてまいりましたが、なかなか出来ずにいました。
 でも、いよいよ開始させて頂こうと思います。色々、不行き届きもあるかと思いますが、皆様とこれから、琅玕洞を通してつながっていくことが出来れば、大変うれしく存じます。

 さて、初回という事で、私の自己紹介を少しだけ織り交ぜながら、何かおもしろいお話を・・・

 今、私が住んでいるところ、爽やかな夏空の下、北ドイツ、とある田舎町から、最新ニュースを先ずはお知らせします。

 アメリカでは2000年頃から、バンブーブームという動きがあり、竹籠コレクターが数多く存在し、数々の展覧会も開催されてきました。(その一環として、英語版「竹籠の美」の出版もあります)ヨーロッパでも、コレクターの数こそ、まだそんなにたくさんはありませんが、数年おきには、竹工芸やその他の日本伝統工芸関連の展覧会が開催されているようです。
 この9月、ドイツ、ハンブルグでも竹籠の展覧会が開催される予定です。詳細は、追って展覧会情報に掲載させて頂きますが、港町ハンブルグは、大阪市と友好20周年という事で、1880年から90年にかけて、ハンブルグ工芸美術館で蒐集された初代早川尚古齋の作品を中心に約70点の展示だそうです。実際に拝見しましたら、詳しいレポートをさせて頂きますので、お楽しみに・・・

 上記のバンブーブームは、最近の出来事ですが、海外での竹工芸の展示は、飯塚家の歴史では、時代を遡ること、1904年(明治37年)米国セントルイス万国博覧会で二代鳳齋が出品、銅賞を受賞という記録が残っております。祖父琅玕齋は、1925年(大正14年)2月、二代鳳齋とともに、パリ万国装飾美術工芸博覧会に出品、兄弟で、名誉賞と銅賞を受賞したようです。
 明治、大正と時代は、美術界でも激しい動きの頃、もっぱら西洋文化を取り入れようとする風潮の中、日本は自国の文化を海外に紹介することにも力を注いでいたのでしょう・・・
 時代は下って、昭和、平成と、日本工芸会、文化庁などの後援により、他工芸分野の先生方と同様に、父小玕齋も、米国シカゴ、フランスパリなどの人間国宝展などで、実演、講演をさせて頂きました。

 現代では、日本と海外の往来は自由になり、成田を朝発てば、同日夜(現地時間)ドイツに降り立つという日常にある私としては、いかにも世界は狭くなったもの、と感じますが、時折思うのは、日本では果たして日本文化をほんとうに身近に、自分達のものとしているのかなあ、という疑問です。

 異国の人々にとって、「竹」というものは、東洋の象徴であり、「漆」(英語名JAPAN)と同じように、日本を即思い浮かべられることが多いのですが、私たち日本人には、身近にある「竹」、もしかすると身近にありすぎて、そのすばらしさ、奥深さを見逃してしまいがちの「竹」・・・
 
 次回は、外国人の目に映った、飯塚家の竹工芸について。ドイツに住んで、改めて私が感ずる事、などについてお話したいと思います。

 暑い毎日、皆さまどうぞくれぐれもご自愛くださいませ・・・
posted by mari at 00:17 | 2009年