2011年11月03日

展覧会情報:飯塚小玕齋回顧展

koten2.jpg飯塚小玕齋回顧展
─父 琅玕齋から弟子たちへ─

日時:2011年11月12日(土)〜27日(日)
   10:00〜18:00
場所:太田市学習文化センター
  (群馬県太田市飯塚町1549-2
   電話:0276-48-6280)

講演会:「父の宿題・祖父の玉手箱」
     講師・飯塚万里氏
     11月12日(土) 11:00〜
実演:「材料と編み方とその工夫」
     講師:松本破風氏
     11月20日(日) 10:00〜

室町時代、中国から煎茶と共に日本に招来した竹工芸(主に花籠)は、江戸末期から煎茶の隆盛と共に明治にかけて唐物籠として珍重されました

当時は籠師とよばれた竹工芸家は、主に中国の花籠を範とした「唐物写しJを製作していましたが、時代と共に「写し」に飽き足らず、独自の作風の籠を制作し、これまで無銘であった作品に自らの銘(名前)を刻む竹工芸家が、関西、関東を中心に輩出してきました。栃木の飯塚家がそのひとつです。

大正期、竹工芸は現代のようにいまだ工芸の一分野として確立しておらず、「竹細工」として工芸では一段低く見られていました。二代鳳齋、そして琅玕齋は、卓越した技術を裏付けに、日本の工芸界で確固とした位置を築いて行きました。

小玕齋はそれをベースとしつつ、昭和、平成の近代工芸界で、より品格のある高い境地の竹工芸を追求しました。
小玕齋は祖父の初代鳳齋(鳳翁)、伯父の二代鳳齋、そして父の琅玕齋から代々受け継がれ、今日の日本伝統工芸としての竹工芸の礎を築き、昭和57年、63歳で国の重要無形文化財「竹工芸」保持者に認定されました。

展示内容
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作品
二代鳳齋 花籃

琅玕齋
花籃「嗚門」・華籃「林殿」 ほか2点

小玕齋
自錆花籃「清流」・ 煤竹花籃「千條」・ 網代編九葉桝形文八角盆 ほか 11点

松本破風
のし竹束ね流水文花籃 ほか 1点

大木淑江
花籃「春」 ほか 1点


・自宅、仕事場写真
・愛用品
・作品のできるまで
posted by mari at 15:26 | 2011年

展覧会情報:松本破風竹工芸展

koten.jpg松本破風竹工芸展

日時:2011年11月12日(土)〜27日(日)
   11:00〜17:00(最終日は午後4時まで)
場所:時遊空館 SPACE 結
  (群馬県邑楽郡大泉町住吉19-1
   電話:0276-63-0178)

千葉県館山市に「竹工房」を構え、制作活動を展開する竹工芸家松本破風さんの作品展を開催します。
松本さんは‘72年に竹工芸家である飯塚小玕斎氏(太田市・人間国宝・故人)に師事、以来研鑽を続け、ニューヨークをはじめ各地で作品展を開催、また第54回日本伝統工芸展で新人賞を受賞するなど活躍されています。

この度太田市が主催する『人間国宝飯塚小玕斎回顧展“父琅玕斎から弟子たちへ”』
への出品と合わせての開催となりました。

今回の作品展では、氏の得意とする「花籠」「茶箱」そして「ブレスレット」などの小品も並びます。
更には妹弟子である大木淑恵さんの作品も花を添えてくれることになりました。
どうご高覧下さいますようご案内申し上げます。
posted by mari at 14:40 | 2011年

2011年10月13日

妙(みょう)

 夏の終わり、毎朝の日課で庭に出ました。

 庭の林檎はずいぶんと色づき、風がまた、心なし叫びながら吹き始めました。あまり夏らしいとは言えなかった今夏、時は今、まるで夏と秋の境目に屹立しているかのようです。

 光は、勢いを失い、小鳥達のさえずりは、溶け入るように風の叫びに混じり合います。

 林檎の枝から、まだ小ぶりのままの可愛らしい一つをもいで、がりりと齧る。
目をつぶり、風にまぎれながら天を仰ぎ、潔い酸味で我が身を満たします。
薄曇りの冷ややかな陽光が、酸っぱさと共に身体に染み入って行く瞬間。

 夏が終わって行く瞬間・・・

 北ドイツの季節の変わり目を幾度となく過ごしてきました。

 春が来て、命が輝き、その頂点の夏の到来、やがて喧騒の時が過ぎ、静けさの重みが増して、秋を抜け、厳しく重い冬の空気が満ちて行く。

 時は、いつもそうして過ぎて行きました。

 誰一人、疑うことなく過ぎて行く・・時の流れ。

 時を見るに妙・・・


 終ろうとするドイツの夏の数日間をベルリンで過ごしました。

 ベルリンという都市は、東西に分断された特異な歴史を持つ場所です。
壁崩壊後、二度ほど訪れた事がありますが、今回は、復興した街並みの姿に改めて時の流れを感じました。

 1989年11月9日、東西の壁の崩壊した日、私は、北ドイツの温泉町バッド・オイエンハウゼンのホテルの一室に居りました。部屋のテレビでフランス映画を見ておりましたが、突然、画面の下に「ベルリンの壁が崩壊、東ドイツ市民が続々と西ベルリンになだれ込んでいる模様・・」というテロップが流れ、事実を受け止め切れず、自分の目を疑ったことを昨日の事のようにはっきりと記憶しております。

 あの日から、20年余りの時が過ぎ、2011年晩夏のベルリンは、北ドイツの片田舎に住まう私には、東京に似た香りのする21世紀の町でした。

 前回は工事中で、通り抜けのできなかったブランデンブルグ門は、威風堂々と聳え立つ巨大な石造りの門で、大勢の観光客がそこここにあふれ、はるかその先には、戦勝記念塔の上に金色に輝く女神ヴィクトリアの姿もはっきりと見通せます。門の左右には、新築のアメリカ大使館など近代的なビルが整然と並び、しゃれたカフェには、傾き始めた夕刻の陽射しを楽しむ人々の明るい表情ばかりが目立ちました。

 滞在中のほとんどの時間を美術館巡りにあてた私は、ハンブルガー・バーンホフ現代美術館を皮切りに、バウハウス美術館、ペルガモン美術館、新博物館と時間を遡るように、現代から古代へと時の旅を続けました。日頃、日本美術ばかりに限定して鑑賞することの多い私ですが、久々に西洋美術の旅は、意義深い時間となりました。

 その大きさに誰もが圧倒される紀元前2世紀頃のギリシャの植民地国家ペルガモンで発掘された「ゼウスの祭壇」や、「ミトレスの市場門」「イシュタール門」などを再現、展示していることで有名なペルガモン美術館では、石の文化の象徴のような重厚なエンタシス様式の柱の優美な曲線に、ふと奈良唐招提寺金堂や法隆寺回廊を思い出しましたが、やはり空気湿度の違う風土の中で築き上げられてきた石造り独特の重さに、日本人の私は、一瞬めまいのような威圧感を感じました。また、巨大な遺跡を丸ごとすっぽりと屋内に再現してしまうゲルマンのスケールには、ギリシャロードス島で仰いだ、真っ青な空にくっきりと屹立する本来の遺跡の香りとは異なる不自然さを感じました。しかし、古代の人々の無垢の魂が、石の造形物の中に潜んでいる様で、はるか太古の人間達のどよめきが聞こえて来るようにも思ったのです。

 東京に生まれ、25歳までを文京区千駄木で過ごした私ですので、都会の喧騒に驚く事はありませんが、ベルリンの中心部、ウンターデンリンデンや、フリードリッヒ通りを人に紛れ歩いていると、現代のコンクリートの街並みに不自然さを感じさせずに古い様式の建物が溶け込んではいるのですが、言いようのない疲れを覚えたのも事実でした。

 ただ、東京とは違って、広大なティアガルテンの緑の木々は、人口の庭園とはいえ、都会の清涼剤のような役割を果たしており、歩き疲れた身には、ほっとする瞬間でもありました。

 やはり、西洋文化は紛れもなく「石の文化」の上に築き上げられているという事を、常に突きつけられるような時間でした。

 「ここに、お前の居場所はあるのか?」 歩きつつ、何処からかいつもそんな問いかけが聞こえて来るような気がしました。

 どこにあっても、気づくと常に日本美に思いを馳せている私ですが、ヨーロッパの大地に身を置く時間は、風土との違和感、それに反して宇宙の流れの下に感ずる同一感、日本と西欧、今と永遠、「対立と合一」との間を行き来しているような気が致します。

 結局は、「自分とは何か?」という問いが、「日本美とは何か?」ということに繋がっていくのかもしれません?

 9月も半ばを過ぎた二日間を、今度は長女とハイデルベルグで過ごす事となりました。
ベルリンは晩夏、ハイデルベルグではもう秋の気配に満ち満ちたすっきりとした空気の中を歩く事となりました。
 
 ハイデルベルグは、ベルリンとは打って変わって、戦禍をまぬがれたドイツ最古の大学町です。ネッカー川を挟んで南に旧市街、ハイデルベルグ城、ハイデルベルグ大学。カール・テオドール橋を渡れば、北岸の山肌に「哲学の道」が見え隠れしております。
 
 この時期、まだ観光客のあふれる旧市街でしたが、石畳の古道をかつては、ゲーテをはじめ、ヘルダーリン、ショパン、時代を下れば、ハイデルベルグ大学で教鞭を取ったというハイデッガーも歩いたという場所でもあります。
また、日本人とは大変に縁の深い町でもあり、かつて哲学者の三木清、九鬼周造など日本文化史に名を残す偉人たちの学んだ土地でもあり、初めて訪れた私ですが、日本の学究たちの匂いを感じるような親近感を持ちました。

 でこぼことした石畳の道は、実はこの10月からハイデルベルグ大学日本学部1年生となる長女の学びの道ともなりますので、母としては、とても感慨深い娘との二人旅となりました。

 ヨーロッパでは、1855年にオランダのライデン大学に日本学部が開設されて以来、日本学は、日本文化研究を主とする学問であり、ドイツでも、ベルリン、ハンブルグ、ボンなど、数箇所の大学で、多くのドイツ人が勉強しております。
日本学の学びの現況は、おいおい娘を通して知る事が叶う事となるでしょう。

 かつて、日本学と意識せず、日本文化を研究した人々は、ドイツに何人もおられますが、以前にお話したブルーノ・タウト氏や、「日本の弓術」の著者オイゲン・へリゲル氏などは、存外ドイツでの知名度はそれほど高くなく、日本でもまだまだ低い知名度よりも、現代のドイツでは、尚更に知る人ぞ知るといった存在である事は否めません。

 若い頃読んだ「日本の弓術」岩波文庫版を携え、かつてヘリゲルの学んだ古きハイデルベルグを歩き、帰宅後、読み返してみました。

 思い返せば、私の若い頃の自分自身への「問い」も、全くといってよいほど、今の「問い」と変わることなく、私の心の底にあり続けているように感じます。

 「日本の弓術」では、ヘリゲルが1925年(大正14年)から5年間の日本滞在中に研鑽した「弓術」の鍛錬の中で、気づいていった事柄や思い、また本来ドイツ哲学者としての日本文化に関しての考察を、1936年(昭和11年)2月25日にベルリン独日協会でドイツ人の為に行われた講演原稿を土台に著されており、昭和16年に岩波書店から発行されたそうです。

 65年の時を経て、時代は変遷し、日本の有様も大きく変化しておりますが、私は、日本人として、西洋文明の波の中に忘れ去ってしまった「心のあり方」を、ドイツ最古の大学町ハイデルベルグの秋の石畳の道で、ひとつ、またひとつ、拾い集めて来た様にも感じるのです。

 ドイツ人のヘリゲルは、斯道の達人、阿波研造範士に師事し、弓術の鍛錬を続けました。その間、いわば禅の精神の下、ことごとく、近代的自我を打ち砕かれて行きました。

 私には、はっきりとヘリゲルの考察を自分自身の言葉として表わせるだけの修行は、まだまだ足りておりませんが、長い時間の流れの下に、西洋から導入され続けた思考パターンを「無心」に受け入れ続けてきた私たち日本人が、東日本大震災や、福島原発事故の大きな試練の中で、本来の「無心」の意味を問い直して、深く深く考えなければならないのではないか、という強い思いを、今、改めて感じるのです。

 「妙」という言葉がありますが、私は、その字としての美しさと深い意味に、常々、思いを致します。

 美を成すに妙
 風を聞くに妙
 時を見るに妙

 オイゲン・へリゲルは、晩年隠棲したバイエルン・アルプス山中、オーストリア国境近くのガルミッシェン・パルテンキルヒェンで、71歳の人生を閉じました。晩年書き溜めた「弓と禅」についての膨大な原稿を全て焼却し、「花びらが木から散るように、静かにおちついて」息を引き取ったといいます。

 そのヘリゲルの最後にも、私は「妙」を感ぜすにはいられません。

 
 今年の夏から秋、日々は常成らぬ忙しさで、久々のベルリン、初めてのハイデルベルグへの旅もあり、なかなか思索に集中できずに、時間ばかりが過ぎ行きました。
来週の日本帰国を前にして、やっと、2ヶ月半ほどの間の途切れ途切れの思いをまとめることができました。

 11月12日より27日まで、群馬県太田市では「飯塚小玕齋回顧展」が予定されております。初日には「父の宿題、祖父の玉手箱」と題して、講演をさせて頂くつもりです。
今回は、太田市所蔵作品12点に加えて、父の代表作数点、祖父の代表作2点、鳳齋作品1点に加えて、父の弟子、松本破風作品2点、大木淑恵作品2点も展示されます。

 もし、お時間がありましたら、是非ご覧頂きたく存じます。改めて、展覧会情報詳細はお知らせ致します。

 秋深まる日本、今、数々の思いを抱きつつも、皆さまの下に、「秋風の妙」のあらん事を願いつつ・・・
posted by mari at 17:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2011年

2011年07月29日

ほんとうの日本

 夢を見ました。

 金色に燃える光の玉が遠い空から、私の頭上へ向け、まっすぐに飛んで来るのです。
見上げると、それは金色の鳳凰でした。きらきらと金の粉をまくように、長い尾と翼の優美な姿に心を奪われるような思いがしました。
空はどこまでも天色(あまいろ)の静けさをたたえ、時は止まったかのように、音なき音色に満ち満ちていました。

 あの夢は、何だったのでしょう?

 数週間前に見た夢ですのに、その光景は薄れることなく、目をつぶれば、まざまざと思い出されます。

 北ドイツは、ここ十日以上、涼しいというよりも肌寒い毎日が続いていました。嵐のような強風に時折か細い雨が舞い散り、心もとなくなるような時ばかりが続きました・・・

 やっと、今夕は、曇天が一休み、肌寒さはそのままに、夢に出てきたのと同じ天色の空が、今、書斎の右手の大きな窓の向こうに広がっています。時刻は、もう8時を回りました。左手、私の斜め後ろの小窓には、日没の透明な夕日がまるで絹糸の束のように、幾重にも差し込んでいます。光は少しずつ薄らいで行きながら、赤味を増し、まだまだ2時間ほどは続くのです・・・

 幼い頃から、空を見上げる事が好きでした。

 東京千駄木の旧宅の子供部屋の窓から見上げた空は、ここ北ドイツの大地から見上げる空よりは、ずっと小さかったような気がします。
8歳頃の早春の昼間、空を見上げて、何故か「あそこに帰るんだなぁ・・」と思った事を鮮明に記憶しています。ゆったりとしてやわらかい空気は、懐かしい日本の香りがしていました。

 震災後、ますます空を見上げる回数が増えました。

 あの空もこの空も、そのずっとずっとはるか向こうには、無限の宇宙が拡がっている事を、私たちは知っています。

 でも、かつての空は、何やら今の空よりは、もっと平面的に見えていたようにも感じるのです。5月、日本帰国時、群馬の自宅から見上げた初夏の夕焼け空は、今まで見たこともないような、或いは、まるで生まれる前に見た事があったような、不思議な奥行きをたたえていました。一瞬、まさしく宇宙を垣間見たかに感じたのです。

 太古の昔より、宇宙は巡り、時は揺らぎながら、私たちを無言に包んでいます。この地球上では、宇宙の抱擁から外れるものは、何一つありません。

 それを、人は、「神」と名づけたのかもしれません?

 古より、あらゆる場面で、人は「神」と出会ってきたのだと思います。しかし、現代に至っては、日常の場面で「神」を意識するようなことはなかなかありません。人間は、人間の力を頼み、それが「生きる」ことと思うようになってから、久しい時が流れてしまっています。

 かつての、日本の工人たちも、やはり、神を意識するように、それぞれの扱う素材を崇めていたように思います。日本の工芸の素材は、自然から与えられたものばかりです。土、植物、金属・・日本には、豊かな素材が満ち満ちておりました。そして、工人の手になる美しいものたちを、私たち日本人は、生活の中で、愛し、用いてきました。

 竹は、そのような日本の素材の中でも、特に自然の力に負う所大なる素材の一つです。作り手の意のままに自由になるというよりは、その植物としての自然の摂理に従いながら、作り上げていかなければならない特性、作り手にとっては、大変な苦労があります。ひご1本、曲げる限界を越えて、力に任せれば、あっという間に折れてしまうのです。

 祖父琅玕齋は、「竹の声に従う」という事をよく語っていたそうです。制作の難所に到って、思わず「南無阿弥陀仏」と唱えていた、というのは、父がよく話してくれた事ですが、無理からぬことだと感じます。

 祖父は、竹を語るとき、古事記の神々の話を交える事があったようですが、古事記はもとより、多くの記紀、また中国文学にも竹にまつわる話は、多くあるようです。

 中でも、古事記上つ巻「黄泉の国」の段では、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)がその妹(いも)伊邪那美命(いざなみのみこと)に相見んと、黄泉の国に追いかけて行った時、還る事を拒む伊邪那美命は、黄泉醜女(よもつしこめ=死の穢れの擬人化)を遣わして、伊邪那岐命を追い払わせたという場面で、「《伊邪那岐命が》またその右の御角髪(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて投げ棄(う)つれば、すなわち笋(たかむな)生りき・・・」とあり、笋とは、筍の古名だそうで、湯津津間櫛の湯津は「斎(ゆ)つ」で神聖な櫛という意味だそうです。
 
 また、中つ巻「応神天皇」の段には、「・・すなわちその伊豆志河の河島の一節竹(ひとよだけ)を取りて、八目(やめ)の荒籠(あらこ)を作り、その河の石を取り、盬(しお)に合へてその竹の葉に裹(つつ)みて詛(とこ)はしめて『この竹の葉の青むが如く、盈(み)ち乾(ふ)るが如く、盈ち乾よ。』・・・」とあり、祖父が、かつて昭和5年の新聞紙上で、これをもって、竹細工起源と語っております。

 昭和5年、祖父琅玕齋40歳、竹と格闘、模索の時期です。

 歴史的な出来事をひも解くと、この年3月、「帝都復興祭、関東大震災からの復興成る」とあります。大正12年9月の関東大震災から7年後の年に当たります。東京は整備され、世の中は、いよいよ、文明の発達の波に呑み込まれて行った頃ではないかと思われます。

 その時、制作の日々、祖父は何を考え、何を感じていたのでしょう?

 関東大震災の日、父小玕齋は、4歳でしたが、鉄瓶に水を満たし、家族を連れ上野の山にいち早く逃げた祖父の勇姿をはっきりと覚えていると話しておりました。何か大いなる力に導かれ、不思議と不安は感じなかったといいます。

 もしも、「竹の神」が在るとしたら、竹の神は、祖父を導き、守ったのかもしれない?
そんな事を夢想します・・・

 私たち日本人は、そして地球上の人類は、大いなる力の下で、誰一人外れることなく生かされているのだと思います。それぞれに「神」は宿り、それぞれが守られていると心から感ずることは、なかなかに難しいことではありますが・・・

 今、私たち日本人が直面している困難は、かつて人類が遭遇した多くの困難の中でも例のない大変に厳しい出来事であると私は感じております。

 しかし、眼差しを少しずつ少しずつ、今在る地上から空へ、宇宙へ、時を越え、俯瞰の視点に置いたとするなら、この日本列島も、はたまた地球という、無限の宇宙に数ある星々の中の一つの星の出来事は、永い時空の螺旋運動の中の摂理の一つである事が、垣間見えてくるのかもしれません?

 そして、地の揺れ、海の波に脅かされながら、私たち日本人は、「人間の知の奢り」により到ってしまった人間の手ではもう御し切れない、例えて云うなら「黒い魔の力」を浄化しようとする使命を帯びていると考えるのは、おかしいことでしょうか?

 この地球上で、類い稀なる美しき風土の日本は、今瀕死の病に直面しています。それは、また、地球と人類の抱えている姿の雛形という事も言えるのだと感じます。

 祖父、父の愛して止まなかった「竹の国、日本」。
 
 私は、今、北ドイツの時ならぬ冷たい夏の空気の中、「ほんとうの日本」を思っております。

 中島みゆき「竹の歌」http://www.youtube.com/watch?v=sD3-E8YGbms&feature=related
posted by mari at 07:51 | 2011年

2011年06月27日

6月2日付 日本経済新聞全国版文化欄 掲載記事

「竹の芸術、輝かせた祖父」 実用品の域超えた琅玕齋の功績伝える

 竹の存在は日本人にとってあまりに身近すぎたのか、実用の具を超えた芸術作品の素材として用いられるようになったのはそれほど古いことではない。しかし、ある時は強く、ある時はしなやかな特性を生かすと、他の素材ではできない豊かな表現ができる。性質を熟知して、古くからある竹細工を芸術の域に高めた人物がいた。明治中期に生まれ、戦後まで活動を続けた飯塚琅玕齋(1890〜1958)、私の祖父である。

◇ドイツの生活が節目に
 
 らせんの動きを思わせる造形の試みや、糸のように細くした竹ひごを一分のすきもなく組み上げる技法の考案など、琅玕齋は竹以外では表現できない独自の世界を開いた。技と精神を継いで人間国宝(重要無形文化財保持者)になった父の飯塚小玕齋は常々「私は父の代わりに人間国宝の称号をいただいた」と言っていた。しかし、肝心の琅玕齋の仕事が人々の目に触れる機会は、これまであまり多くなかった。
 琅玕齋は私が物心つく前に他界したので、一緒に過ごした記憶はない。しかし、我が家には琅玕齋の香りが満ちていた。その後ドイツ人のもとに嫁ぎ、ドイツのハノーバーで暮らし始めた。海外ではしばしば、日本とは何かを考えさせられる。幼い頃から家にあった竹の芸術が、記憶の中で静かに光を放ち始めた。
    
◇日記や手紙が資料

 2000年に母、04年に父が亡くなった。失うと大切さが身にしみるのは人間の常である。竹は私の心の中で輝きを増した。琅玕齋の本格的な顕影に望むべく、琅玕洞という機関を立ち上げた。
 竹工芸は研究者の少ない分野で、資料集めにも苦労が多い。だが、家に残っていた日記や手紙を読んだり、海外の竹ブームに乗じて作品が流出しないように買い戻したりするなどできることを重ねていくと、琅玕齋の素顔が徐々に見え始めた。
 琅玕齋は、栃木県で竹細工の籠を作る籠師、初代飯塚鳳齋の六男として生まれた。12歳の頃、修業を始め、6年後には、名人といわれた長兄の二代鳳齋の代作を務めるまでに熟練したという。一方、本人は内心、画家を志していた。職人の仕事に飽き足らず「芸術表現」がしたかったのだろう。親が反対したのは言うまでもない。
 突破口は、一族そろっての上京だった。仕事の広がりを求めた飯塚一族は、のちに天皇家に作品を納めるなど発展を続ける。上京時の琅玕齋は20歳。画家を目指す心を竹工芸家への志に置き換え、茶道、華道、書、漢学、俳句、謡曲などの世界を巡り、念願の水墨画も描き始めた。竹の芸術が花開く素地ができた。
 こんな逸話がある琅玕齋が考案した「竹刺編(たけさしあみ)」という技法による作品を制作中、仕事に行き詰まり、上野で開かれていた絵画の名品展をふらりとのぞいた時のことだ。日本画家の速水御舟の「京の舞妓」に目を奪われた。注目したのは舞妓ではなく背景の畳の目だった。あまりに細密に描いている御舟の筆力に奮い立たされ、他の作家の力作には目もくれずに、きびすを返して工房に戻ったという。
 「竹刺編」は、一日に数ミリしか進められない緻密を極めた技法である。御舟の描写は、さぞ力になったことだろう。完成した「竹製筥(はこ)」は。1932年の帝展で特選を受賞した。「(他の作家の)衒気(げんき)やけれんや誤った美意識の中で私の心を引いた」と評したのは民芸運動の柳宗悦だった。
 日本画にはよほど執着があったのだろう。日本画家の川端龍子が描いた「鳴門」という六曲一双のダイナミックな屏風絵に魅せられ、平らに延ばした竹で波のうねりを組み上げた同名の花籠は、琅玕齋の代表作だ。いつの日か、この二作を並べて展示することを、私は夢見ている。
   
◇画帖から在りし日想像
 
 琅玕齋は書道の三体に通じる「真・行・草」の概念を日本文化の本質と見極め、竹で作品を作る際にも意識した。1933年にドイツから来日して琅玕齋の元を訪ね、より造形的な「草」の概念の作品を「モダン」とたたえたのは、建築家のブルーノ・タウトだった。タウトが滞在していた群馬県高崎市の達磨寺洗心亭を琅玕齋が訪ねた時には、琅玕齋が贈った竹の「おしぼりおき」を「香盆」に見立てるなどタウトは茶人のふるまいをしたという。日本の粋で通じ合った二人は、充実した時間を過ごしたに違いない。
 手元にある琅玕齋の画帖を見ると、筆触の脱力感と味わいに記憶にはない祖父の姿を想像する。若い時は竹と格闘しながら、晩年は竹の声を聞きながら制作に臨んだという。これからもその声を伝え続けたい。(飯塚万里=琅玕洞主宰)
posted by mari at 05:29 | 2011年

花一輪

 六月の日本、大気はたっぷりと水分をたたえ、そこここに、白い花々が咲いていることでしょう・・・
  
 吸葛(すいかずら)、どくだみ、やまほうし、竹似草(たけにぐさ)、梔子(くちなし)、泰山木(たいさんぼく)、夏椿(沙羅)、くらら、あじさい・・・・
 日本語の美しい純白の花たちの名前です・・

 私は、白い花が好きですので、この季節、花を活ける喜びはひとしおです。

 群馬の自宅裏の斜面に咲き乱れる吸葛は、その色が、白から黄色へ変化する事から、別名「金銀花」とも言うそうで、甘い香りは何とも言えず、梅雨の合間の妖精のよう・・・

 どくだみは裏庭一面に。夏椿は、玄関前の一本がずいぶんと大きく育ち、梅雨明け頃から、朝に開き、夕べには落ちる、無常の印のよう・・・

 0627-1.jpgいつもなら、今頃は、日本におりますが、今年はドイツの乾いた空気の中で、淋しい思いを噛み締めています。
肌に吸い付くようにしっとりとした空気と、窓から見える松山の霧に煙る幽玄の景色を、只々、想うばかりの今日この頃です

 北ドイツ、花の季節は、ほぼ終わりを告げ、林檎の枝々は、頬を染める乙女のように、緑に紅の射した小さな固い実を持ち、花みずきや数々の木々は、緑の狂想曲の時期に入りました。

 花を手折り、活ける・・・こちらでのいつものことができるようになるのに、今年は長い時間がかかりました。一心に咲いている花々ですので、良い枝ぶりを慎重に選び、「活ける」という瞬間の緊張感が大好きですのに・・・

 無言で咲き競う花々を、そっと、そのままに・・見つめ続けるばかりの日々でした。

 やっと、活ける気持ちになった時、自分の心を盛り上げようと、明るい赤や、桃色の花を選び、西洋式に大きく、丸く活けてみたりもしましたが、気づくと、やはり、白い花たちをひっそりと、小さく飾っておりました。


 5月10日から、2週間、日本帰国しておりました。
11月12日より、27日まで、群馬県太田市で「飯塚小玕齋回顧展」が企画されており、その準備としての短期帰国となりました。私事ですが、本年は6月に長女が高校卒業を迎え、秋には大学生となりますので、例年の長期帰国は叶いませんでした。

たった2週間、用件に追われる日本での日々の中、玄関前の鈴蘭をいつものように竹籠に活け、また、仏壇にも供えました。鈴蘭は、例年通りの芳しい香りをほんのりと部屋に滲ませておりました。

 花は、安らぎを与えてくれるものであり、自己流ですが、花を活けるということは、私の生活の一部でもあります。

「いけばな」の起源は、仏教の供花にあるという説が強いそうですが、「華道」というかしこまった求道(ぐどう)的な意味合いもさることながら、幼い頃、しろつめぐさや、小さな野に咲く名も無い花を摘んできて、コップに挿す・・・そんなことを懐かしく思い出します。


 0627-2.jpg瓦礫の中、多くの被災地の皆さまは、まだまだ先の見えない仮住まいのご不便な中、また、福島の皆さまは、たとえお住まいはご無事だった方でも、ご不安の絶えない日々をお過ごしになっていらっしゃることでしょう?

 5月、群馬の自宅に帰ってみて、想像するばかりでした日本の空気を吸い、肌で感じた私の思いは、被災されなかった日本中の人々の心の片隅にも、すっきりとしない漠然とした不安感が巣食っているということでした。
 ドイツに戻ってまいりましても、そのことは、ずっと私の頭から離れません・・・

 あの日から、世界は変わってしまったのだと思います。それは、地球上の何処にあろうとも、同じ事だと感じております。

 毎日、ふと気づくと、「美のちから」、「竹のちから」について、考えております。

 美しいと感動する、人の心の清らかさ、人の心の強さに思いを馳せております。

 でも、正直に申し上げれば、どうすれば、「美のちから」を「いのちのちから」に結びつける事ができるのかが、わかりません・・・?



 震災に伴い、花にまつわるお話を幾つか耳にしました。

 ガーベラ一輪を配られたお花屋さんの事。
 被災地や日本全国で、ひまわりの花の種を蒔く運動。
 福島や東北で、菜の花畑を広げようとする人たち・・
 被災地を訪問された皇后陛下に水仙の花を差し上げた避難所の方のお話・・・

 花は、いつの時も黙って咲いていますが、人はその姿に理屈ぬきで癒されます。

 おさなごが摘んだ小さな花にも、名のある華道家が活けた、ダイナミックないけばなにも、自然から頂いた命の光は輝き、見る人々の心に染み入って行きます。

 竹工芸の世界で、その大勢を占める「花籠」は、花を活ける為の道具なのですが、茶室での趣きや、現代的な空間に置かれたオブジェとしての花籠の在り方など、思えば、生活が充足した上での竹工芸というものを考察してきた日々をふり返り、今の日本の現状と照らし合わせた時、私の心の中には、言うに言われぬ混乱が生じております。

 どうしても、被災地でのご苦労を重ねて居られる皆さまに考えが行ってしまい、安定した生活の中での「いけばなと花籠」が、今という時間から浮き上がってしまうのです。

 しかし、「竹」というものは、古来より日本の真髄のような植物で、神事や、古事記の神々と密接な繋がりをもち続けてきた類い稀な生い立ちを持っております。生き物としての「竹」に、もしかしたら、日本人にとっての手がかりがあるかもしれません?

 作り手としての竹工芸家も、使い手、鑑賞者としての私たちも、日本人として、この現在の日本の状況を深く鑑みて、新たな一歩を踏み出し、築き上げて行かなければいけないように感じております。それは、「美の世界」と繋がる「心の世界」の課題であるようにも思うのです。

 飯塚家においても、初代鳳齋から、祖父琅玕齋、父小玕齋とその精神や技術が受け継がれた長い時間の中に、戦争や、天災など幾多の困難がありました。その時々の流れの中で、それぞれが、日本国民として、また、一個人として、苦難を乗り越え、「竹」を基として目指す境地を忘れずに、生き続けてきたのだと思います。

 未曾有の天災、また、人類史上極めて重大な放射能災害ともいわれる今回の災難を、私たち日本人は、どうやって克服して行くのか・・・課題は、余りに重く、困難を極めますが、人の命の尊さと、自然や宇宙の営みの偉大さとを同時に見つめる心を土台として、「竹」という日本独自の分野に関わる一日本人として、また、一地球人類として、模索しようという思いを新たにしております今日この頃です。

 願わくば、今、どのような厳しい状況に置かれていようとも、花一輪を大地より頂き、花籠に限らず、手元の何がしかの器に、そっと活け、ほんの一瞬でも心和む時を、全ての方々が持たれる事を、心より念じております。

  金銀花 ましろに聖く 微笑みて 人の心に 光たたえん      
                                 万里


●「目の眼」8月号、6月27日発売  
  特集 琅玕齋の真・行・草
   里文出版  http://www.ribun.co.jp/me/index.html
posted by mari at 05:24 | 2011年

2011年05月06日

それでも、花は咲く

 4月23日、福島県三春町の樹齢千年といわれる日本三大桜「三保滝桜」満開の写真を目にしました。

 「それでも、花は咲く・・・」

 あまりに、かなしく、はかなく、美しく・・・
 限りない思いの重なり合った花便り・・・

 被災地の、被災地以外の地球上全ての日本人の「心の眼(まなこ)」に映る「花」を、北の大陸の果てより、私は、目を閉じ、祈りと哀悼の念と共に、深く我が心に刻み付けています・・・
 
 あの日から、既に二ヶ月足らずの時が経過しました。

 言葉を失った毎日が続きました。今も私の心の底の「何か」には、与えるべき言葉が見つかりません。

 「沈黙」こそが、この春には、いちばん相応しいように思われてなりません?

 「それでも、花は咲く・・・」

 天上より、幾度も、幾度も聞こえ続ける声は、いったい私に何を教えようとしているのでしょう?

 いつになく、春の訪れの早かった今年の北ドイツでは、高速フィルムを見るように、時々刻々、植物の成長が早く、庭のミラベルは、たった一日で満開の花びらが散りました。

 弱ってしまった心の私には、ひどく残酷に、若葉はぐんぐん伸びていき、草いきれの芳しいはずの庭から見上げる、澄み切った青空には、太陽の、これもまたいつになく強烈な光が、息苦しく、私を威圧するかのようです。

 毎夕の日没の太陽は、何故か「血の色」を滲ませるように、真っ赤に燃えて沈み行きます。

 日本の東北の瓦礫の先の、ざくざくとした地平線、心なし吸い込まれるように沈む太陽も、同じ色をしているのでしょうか?

 私が、常に仰いできた「大自然である宇宙」は、まさに今、人類に何かを語りかけ、導こうとする意志を強く感じさせます。

 それは、錯覚、幻なのでしょうか?

 古事記上つ巻、邇邇芸命(ににぎのみこと)の段に登場する花の如く麗しき美人(おとめ)と云われる「木花佐久夜毘賣(このはなさくやひめ)」は、火の神であり、富士山を守り、東日本一帯を守護しているという事を聞いた事があります。

 はかなさ、あはれの象徴とされ、大和の国の美、「桜」の女神が、同時に火の神でもあるということが、この春、やっとわかったような気が致します。

 古(いにしへ)の神々は、静と動を兼ね合わせ、その威る(たける)ことを「稜威(いつ)」という言葉であらわしているのかもしれない・・そのようにも感じます。

 目を閉じて、時を超え、過去も未来も、現在をも全てを含む、光と闇の空間に踏み入ることが、もしも許されるなら、叶うなら・・・それを、永遠と名づけることができるなら・・

 思うのです、はるか太古の昔、火も水も土も大気も、人は、おおいなる自然よりいただき、恭しく(うやうやしく)捧げ抱いたのであろうと。

 火と水と土と大気によって、私たちの祖先は、あらゆるものを厳かに作る事を許され、畏れ(おそれ)ながら、大地を耕し、鉄を打ち、子孫を育み、「世界」を作り上げてきました。
神に在ることが常であった「火と水と土と大気」が、いつの時から、人のものとされるようになってしまったのか? 

 「闇」は、限りなく暗く、「光」は、慈しみ、導くように、人を包んでいました。

 思うのです、それは、今も変わることなく、続いているのだろうと・・・


 それでも、花は、黙って、咲いています。

 花が、すべてを語ってくれるだろうと・・・

                                 祈りと共に    飯塚万里
posted by mari at 17:15 | 2011年

展覧会情報

資生堂が主催した工芸美術の展覧会「現代工藝展」(1975〜1995)で創設メンバーの一人として、第一回展から最終展まで出品を続けた小玕齋の作品中、代表作とされる作品10点が出品されています。
 
「飯塚小玕齋  竹工芸展」
 
会場  資生堂アートハウス(小展示場)
    〒436-0025 静岡県掛川市下俣751-1 TEL:0573-23-6122
 
会期  2011年4月5日(火)〜6月26日(日)

休館日 月曜日(月曜日が休日の場合 翌日休館)

入館料 無料

開館  10時〜17時(入館16時30分まで)

http://www.shiseido.co.jp/art-house/


posted by mari at 00:00 | 2011年

2011年03月08日

稜威(いつ)

 窓を開け、朝の空気を入れ替えました。20110308.jpg

 明け方の雨のせいでしょうか、微かに重さを含んだやわらかい空気が、ふわっと流れ込み、思わず深呼吸してしまいました。

 なつかしい空気・・・

 今朝も曇天の暗い空ですが、雲に覆われた空の底に、薄く光を感じます。

 ミラベルの枝々には、点々と雨後の光る滴、淡い赤みを帯びた蕾も点々と・・・
 
 日本は蝋梅(ろうばい)の香りが馥郁として、また、白梅、紅梅、桃の便りも、そこここに・・・

 陰暦三月「弥生(やよい)」は、「いやおい」とも読み、「弥」は「いよいよ、ますます」の意だそうで、これから春に向かい、草木の繁る勢いも増していくことでしょう。

 北ドイツ、我が家の庭の東隅に、わずかばかり、矢竹の一種、笹に似た二株を植えておりますが、寒さにもめげずに「竹の秋」(春の季語、竹の落葉期は陰暦三月)を迎えようとしております。
 
  弱竹(なよたけ)の輝ふときや たけの秋    万里

 春の光に、ちらちらと笹の葉のうるわしい季節も、すぐそこまで来ております。

 「なよ竹のかぐや姫」とは、しなやかな竹の如く輝くお姫さまという意味で、「竹取物語」では、「三室戸齋部(みむろどのいんべ)のあきた」が銘々したとあり、古(いにしえ)のかぐや姫は、月の世界へと倭(やまと)の国を後にしましたが、今日ご紹介させて頂く、現代、「平成の姫君」は、はるか異国、英国にてのご勉学を修められ、ご生誕の地、日本へと戻って来られました。

 (ちなみに、皇族の雅称を「竹の園生(そのう)」と呼ぶのは、史記、前漢の文帝の皇子梁の孝王の庭園を竹園と呼んだ事からだそうで、名称は元より、「大嘗祭(だいじょうさい、天皇が即位後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)」の儀式用具に竹籠(神服入目籠しんぷくいれめかご)が用いられたり、また、神道の「依代」に竹が多く用いられるなど、皇室と竹とのつながりは、多くあるようです。)

 この度は、本年1月より、月刊誌『和樂』で連載されている「彬子女王殿下が贈る『日本美のこころ』」第4回(4月号)にて、祖父琅玕齋の作品5点他とともに、「世界で唯一の芸術、日本の竹工芸」として、竹工芸に関する一文を頂いております事を、皆様にお知らせしたいと存じます。

 ご存じの方も多いかと思いますが、彬子女王殿下は、寛仁親王殿下の第一女子として誕生され、学習院大学ご卒業後、オックスフォード大学マートンコレッジに留学され、昨年女性皇族として、初の博士号を取得されました。特に、海外の日本美術コレクションに関する調査・研究に習熟されており、ご帰国後は、京都立命館大学衣笠総合研究機構に席を置かれ、ご公務のかたわら、ご研究を続けていらっしゃるとのことでございます。 
 
 そして、本来のご専攻の日本美術史の土台の上に竹工芸の世界にくっきりとした眼差しを向け続けて頂いている事が、これからの竹の世界に関わる人たちにとって、大きな支えとなって頂ける事だろうと、感じております。祖父の作品、琅玕洞表紙の、煤竹「花籃」に「ひとめぼれ」されたという御文中の一事は、何よりも大変嬉しく思われました。

 味わい深い日本の古民家の柔らかい光の中に置かれた竹籠の姿は、花が活けられたものも、そうでないものも、共に麗しい記事になっておりますことは、喜びに絶えません。
 
 第1回の「伊勢神宮のご神宝」に始まり、毎回、色鮮やかな写真によって、普段はあまり一般に目にされない、しかし、日本美の粋(すい)といっても良い数々の美術品が掲載されており、彬子女王殿下ご執筆の、一般にも大変にわかりやすい文章と共に、改めて、古来より日本の真髄とされていた、日本独自の美を垣間見る、またとない機会かと思います。

 飯塚家の歴史を遡ると、1915年(大正4年)大正天皇即位に伴う大嘗祭のための神服入目籠一対を、鳳凰、二代鳳齋、弥之助(琅玕齋)揃っての御謹製に始まり、平成の時代まで、宮内省買い上げ、献上など、三の丸尚蔵館、神宮美術館収蔵の作品もあります。
他の工芸分野の名だたる名人達、古来からの「美の僕(しもべ)」の末席に飯塚家の人間も名を連ねさせて頂いておりました。

 また、昭和54年(1979年)から、3年に渡り、正倉院の宝物調査に携わった父小玕齋は、竹を材とした数々の宝物の調査により、改めて竹工芸の日本美術における存在意義を認識させて頂いた「竹工芸家の人生」で、重要な機会であったことを、よく語っておりました。
(この時の研究報告は、本年正倉院ホームページ、『正倉院紀要(年報)』電子書籍版にて、公開の運びとなりました。)

 明治維新とともに、西洋の文明が怒涛の如く日本に流れ込み、日本独自の文化を、ないがしろにしがちであった長い時間が流れ、今、私たち日本人は、色々な意味で岐路に立たされているように感じます。
「芸術」「美術」という言葉も明治維新に伴って、ドイツ語の工芸美術や造形美術を意味するKunstgewerbeやBildende Kunstなどの訳語として使われ始めたもので、古来より日本にあった手仕事の世界も全てがそれらの言葉の元にひとくくりに置かれていました。

 そのような時代の流れの中で、竹工芸は他の日本独自の工芸分野とともにどうにか存続をしてこられたわけですが、なかなか一般の方々には理解され難いままになっていることも事実なのです。今回の『和樂』の特集では、そのあたりの事を、彬子女王殿下の海外でのご経験も含めて、語られておりますので、ぜひ皆様にもご一読頂きたく存じます。

 明治、大正、昭和、平成と150年足らずの時間の流れの中で、この国は、数々の出来事に見舞われながら、「ある何か」を失ってしまったようです。残念なことに、一般にあまり意識されなくなってしまった日本文化の根幹を千何百年の長きに渡り、心として、形としても守り続けて来られている皇族の方々の果たされる役割というものには、私のような者でも畏敬の念を隠せざるを得ません。

 さて、「稜威(いつ)」という言葉がございますが、現代では、ほとんど目にする事のない言葉と成りました。また、この言葉の持つ深い意味については、私は、まだまだ、勉強を続けて行かなければ成らない事と感じております。
 
 その意味は、
・ 尊厳な威光。威勢の鋭いこと。
・ 斎(い)み浄(きよ)められていること。祝詞、神賀詞。
・ 植物などが威勢よく繁茂すること。

だそうで、すぐさまそのイメージを思い浮かべる事は、この時代にあっては、大変に難しい事かと思います。また、先の大戦の頃をご存じの方々には、曲解された意味のイメージの方がおそらくは強く、戦後、良きも悪しきも「和の風」が排除されてしまった中で、文化の底に隠れてしまった言葉であり、概念なのだろうと、私には感じられます。

 今は、ただ、「稜威(いつ)」という言葉が、日本文化の底にあるらしい、ということを述べさせて頂くだけに留めておきたいと思います。

 そして、「光」という言葉が、日本語の中でも美しく響く数々の言葉のうちの一つだと、常々私が感じております事も、共に申し上げたいことでもあります。

 さて、二月の文章では、「内なる光」を放つ竹籠のお話をさせて頂きましたが、現代の居住空間の中に置かれた竹籠は、また、古とは異なる姿を持つようですし、また、そこに、新しい竹籠鑑賞の醍醐味も生まれてくるようです。

 私たち日本人は、蛍光灯や、それに準ずるような照明にはもう長い間慣らされており、明度の高い住空間にあることが多くなっております。

 おもしろいことに、ヨーロッパでは、あまり蛍光灯が用いられず、赤みを帯びた電灯の間接照明や、時には、蝋燭や、暖炉の薪の炎の明るさだけで、夜を過ごすことも多いので、こちらに来たばかりの頃は、町角の暗さと共に、夜のひとときを美しく感じたものです。

 そして、日本の外光を多く取り込む洋風の建物には、かつての陰翳は失われて久しくなりました。

 工芸品の楽しみ方は、それぞれの時代時代で変化して行くもので、そこに昔では思いつかないはっとする新鮮な美しさも生まれてくるのだろうと思います。
陰翳の中で、ひっそりとした美を語っていた日本の工芸品も、新しい時代に向けて、新しい意匠を加えていくこととなるのだろうと思います。

 竹工芸においては、彬子女王殿下のお言葉の如く、「外なる光」との出会いにより生まれた「影」の成す美であるのでしょう。

 彬子女王殿下は、「竹の園生」の中で、お育ちになり、異国、英国の地で、しっかりとこの国を外からご覧になられた確かな眼を以て、日本独自の美に臨まれておられるように感じます。その御炯眼が今後の日本にどれだけ深い意味を持たれることであろうかと、心より敬服いたしておりますのは、私のような者に限らず、多くのこの国を思う人々、皆の思いなのではないでしょうか?

 今後も、私は、彬子女王殿下より、皆さまと同じように、『和樂』連載記事で、多くの事を学ばせて頂けることを、嬉しく、願うばかりでございます。

 さて、来月は、桜の便りも聞かれる季節となりましょう・・・
どのようなお話をさせていただくか、お雛様に、そっと問うてみようかと思います。


『和樂』小学館  http://www.waraku-an.com/
posted by mari at 07:26 | 2011年

2011年02月26日

 立春も過ぎ、如月の日々、日本から雪の便りが届きました。

   雪のあしたの裸洗濯

 白銀に輝く関東平野に、くっきりと澄み渡った青空。
 日本の冬しか知らなかった幼い頃の私には、光が満ちた晴れやかな雪景色は、当たり前のものでした。

 木々の、家々の、「影」が、純白のキャンバスに、様々な模様を描きます。
 それは、喜びに満ちた一幅の絵画のようです。

 一方、今、私の視線の先、大きなガラス窓の向こうには、どんよりと悲しげな煉瓦造りの家並み、木々の枝々は、銅版画のように、神経質な黒々とした線を描き、彼方の山の稜線は、雲に隠れて、その姿を見せません。 

 襟を立て、背を屈めつつ、散歩の道すがら、微かな「光」を見つけました。

     まんさくに光拝みて早春賦      万里

 春は、見え隠れしながらやってきて、気づくともうそこにある、というものかもしれません。早春にひっそりと咲く「万作」の花、ドイツにもあるその花は、日本人の私の心に、微かな光を思い起こさせ、静かに春を知らせてくれました。

 そして、遠く記憶の彼方から蘇った「早春賦」の旋律・・・


    早春賦       作詞 吉丸一昌 作曲 中田章
 
   春は名のみの  風の寒さや
   谷の鶯     歌は思えど
   時にあらずと  声も立てず
   時にあらずと  声も立てず

   氷融け去り   葦は角ぐむ
   さては時ぞと  思うあやにく
   今日も昨日も  雪の空
   今日も昨日も  雪の空

   春と聞かねば  知らでありしを
   聞けば急かるる 胸の思いを
   いかにせよとの この頃か
   いかにせよとの この頃か 
 
 「あと少しの辛抱・・」と、縮こまった心と身体を暖めてくれるようです。
 時と共に、陽光も力を増していくことでしょう・・・

 さて、「光」は、外界にあっては、P2150016.jpg春の兆しの一つのあらわれですが、古(いにしえ)から現代まで、屋内に置かれた竹籠にとっても、重要な役割を果たしているように感じます。

 日本の古い家屋では、「陰翳礼賛(いんえいらいさん)」でかつて谷崎潤一郎が綴ったごとく、現代のように明々(あかあか)とした電灯も、日光をいっぱいに取り込む間取りもない、ぼんやりとした薄明かるい空間が常の事でした。茶室などは、その最たるもので、日本人は、長い間、そういう陰翳の中で暮らしを作り上げてきたのでしょう。

 床の間に、季節の花が活けられた花籠は、掛け軸や、香、湯の涌く松籟(しょうらい)の音など、亭主によって醸し出された空間の中で、ひっそりと「内からの光」を放ちます。

 私の生まれ育った東京千駄木の今はもうない旧宅も、古い日本家屋で、時折、夢に現れる茶室や、広間は、やはり薄暗い空間で、子供心には少し陰鬱として、重苦しい家内でしたが、年を経て、今の私には、しっとりと静謐な空気が懐かしく、季節季節に活けられた床の間の花や、「手沢(しゅたく)」や「なれ」などと、谷崎が尊ぶ如く、底光りのした家具調度に囲まれた昔風の暮らしもよいものだと思うのです。

 「手沢」とは、長く所持する間についた艶(つや)のこと、「なれ」は、熟することを意味するそうで、日本の工芸のそれぞれの分野における味わいには不可欠のことで、竹工芸では、素材である竹が、一本一本の竹ひごに姿を変えた後も生き続け、時を経るほどに、手入れさえきちんと施されていれば、深い光を、作品の内側から放ち続けます。

 内なる光・・・

 そういえば、「竹取物語」では、竹取の翁が、「もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。」と、小さきかぐや姫との邂逅が美しく、語られておりますね?

 さて、来月は、御伽噺(おとぎばなし)ならぬ、現代のお姫さまと、「内なる光」から、「外なる光」と竹籠の出会いのお話をさせて頂きたいと思います。
posted by mari at 03:50 | 2011年

2011年01月31日

匂い

 2011年の年明け、皆さま、いかがお迎えになりましたでしょうか?

 寒中お見舞い申し上げます。
 
 暦の上では、大寒も過ぎましたが、本年も、この随筆をお読みいただけますよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 北ドイツの年明けは、昨年からの根雪の中、2011年0時直前の、耳を劈(つんざ)かんばかりの花火の音と共に始まりました。

 元旦の闇にとけ入る静寂(しじま)かな       万里


 2時過ぎともなると、一切の騒々しさは治まり、限りなく拡がる闇が、たっぷりと静けさを際立たせます・・・

 ドイツ、田園の闇は、どこまでも、どこまでも限りない漆黒です。

201102.jpg

 1月、冬の夜明けは、8時近くなってやっと訪れ、日中でもどんよりと暗く沈んだ昼間は、あっという間に暗闇に戻ります。光乏しい冬、長く重苦しく、冷たい冬は、気持ちもついつい下向きになりがちです。下向きの心は、肉体にまで及び、ひどい鬱状態さえ起こしかねません。
 
 家の中が、ほっこりと暖かいだけが救いですので、私は、日本で中断していた読書や思索、時には、ジャムやお菓子作りや料理に救いを求めることとなります。

 台所で、ゆっくりと煮込むジャムの匂いは家中に漂い、林檎の時もあれば、南欧のオレンジなど、本気でおいしいジャムを煮ようとすれば、基本はお砂糖と共に煮るだけなのですが、それぞれの果物によって、仕込み方にも独特の方法があるのです。私は、オレンジマーマレードが大好物で、おいしいビターマーマレードを作るには、全工程四日もかかるレシピがお気に入りですが、これには、寝かせておく時間がかなりの部分を占めますけれど、「いざいざ・・」といった気合がないと、途中でつい疲れてしまうのです。

 「男子厨房に入る」は、めずらしいことではなくなりましたが、やはり何といっても料理は、今も昔も主婦、女の仕事となっておりますね?
毎日三食、心を配りながら、家族のために作る事は、便利になった現代でも、主婦には時に、嫌気のさすこともあり、根が怠け者の私は、昔、子供たちが小さかった頃は、他の家事と重なって、単調な繰り返しにほとほと疲れて、料理の楽しみなどは、どこへやらという事も度々でした。

 その頃、手にして、難解ながらも救われた本がございます。

「典座教訓」(てんぞきょうくん)福井永平寺、開山の祖、道元禅師が著した御本で、「典座」という台所方の仕事が、禅の修業の上で、どれだけ重要であるかを説いた本なのです。

 嘉禎3年(1237年)道元禅師38歳の頃、著されたそうです。禅書ですので、内容は仏法の事であり、原書はもちろん漢字ばかりで、私のような者には読み下すことはおろか、解釈さえ、おぼつきませんが、副題を「調理と禅の心」とした上田祖峯氏の本は、新釈を加え、解説の柔らかな文章が、子育てに追われ、家事にうんざりしている怠け者主婦の私の心に、不思議と綿が水を吸う如く、染み入っていったのを記憶しております。

 凡夫の日々の生活は、決まりごとをこなす事に終始し、明け暮れて行くのが常ですから、惰性に陥ったり、疲れてうんざりしてしまったり、自分を律して、その中で、何かを生み出して行く創作者であろうとするのは、なかなか困難な事のようにその頃の私は、思っておりました。ものづくりや、読書や文章を書く自由な時間も取れず、日々の事にも気持ちを込められず、中途半端な思いに鬱々としていたように感じます。

 「意義」を見失った迷子の私に「典座教訓」の言葉は、芸術家だろうが主婦だろうが、全ては心を込めて、何事にも相対するならば、「道」は同じであることを示唆してくれました。

 「炊事即仏道」(すいじ そく ぶつどう)

 禅林(禅宗の寺院)の典座職に向けられた言葉ではあるのですが、今でも、相変わらず、悩み多き私の心にすっと入り込んでくる言葉の一つです。
 
 竹工芸家の父を見ながら育った私にとって、芸術家は、表現者であると同時に禅のお坊さんのように、日々之修行という印象が強く、その事は、私の現在の生活の端々にも影を落としています。
 でも、まだまだ、修行の足りない私ですので、やれ、寒いだの、暑いだの、疲れただのと、不平不満も多く、また、ドイツの暗い冬には、弱い心に負けてしまい、鬱々とした気分に支配されてしまう事も年中なのです。

 さて、ジャムを煮る匂いが、家中に満ちていますと、何とも言えず、心が落ち着く私ですが、「匂い」という日本語には、様々な意味があるようです。

 「におい」には、「臭」と書く心地よくないにおいもありますが、文字通り香り、香気を表すのは元より、
   ・赤などのあざやかな色が美しく映えること。
   ・はなやかなこと。つやつやしいこと。
   ・ひかり。威光。
   ・(人柄などの)おもむき。気品。
   ・同色の濃淡によるぼかし。(平安の頃の襲《かさね》の色目などのぼかし、日本刀の刃の地肌との境目の部分の霧の様にほんのりと見える文様)
   ・和歌・俳諧などに漂う気分・情趣・余情など。
   ・そのものが持つ雰囲気。
        などなど・・・・・

 他の言語を詳しくはわかりませんが、ドイツ語には、ここまで多様な表現はなされていないように思います。

 芸術の世界でも、時々、「匂い」という言葉を使うことがあるようですが、「作風」というような意味合いで使われることが多いかと感じます。

 私の曽祖父の代からの飯塚家の制作地は栃木県をルーツとして、東京、つまり関東なのですが、竹工芸は、もともとの唐物籠の影響を基盤に、主に九州、関西、関東と大別されてきました。近代から現代へ、個々の作家の持ち味へと変遷していったのですが、技法や形態などから、竹工芸の世界の人間は、時々「匂い」、特に私の身近では、「飯塚系の匂いがする」というような言い方をする場合がございます。

 「飯塚系の匂い」について、言葉で表現することは、例によって至難の業ですので、こればかりは、作品をご覧になっていただくしかありません。そして、祖父「琅玕齋の匂い」を今も作家の方達を始め、多くの方々が、追い求め、愛して下さっている事は、ぜひお伝えしたいことでもあります。

 父小玕齋には、何人かのお弟子さん達が居られますが、現在活躍中の作家では、昨年5月の「新緑の季節」でご紹介した大木淑恵さんの他に、松本破風さんが居られます。

 2月3日から、12日まで、銀座一穂堂サロンにて、松本破風さんの個展が開催予定となっていることをお知らせ致したいと存じます。

 竹ブームの長いアメリカで、昨夏、大木淑恵さんも女性作家グループ展に参加されましたが、松本さんも過去に数回、アメリカで個展や、グループ展での発表も経験しており、海外にも破風ファンは存在しているようです。
 大木さんは、三十代のまさしく若手作家ですが、作家的年齢では、五十代も若手というこの世界では、五十半ばの松本さんは、進化中の脂の乗った季節を快走中の作家と言って良いように思います。

 お人柄は、剣道の師範もされていた事から、私は、時々「野武士」と擬える(なぞらえる)事もあるのですが、剛毅と同時に繊細さも兼ね備えた方です。父小玕齋五十代後半の、いちばん厳格な頃に四年ほど修行され、昔風、ちょうど禅宗の雲水のように、庭掃除、雑草取りなどから、叩き込まれたお弟子でもあります。現在は、千葉館山で、ひっそりと制作されております。

 それぞれの作家の方達は、ご自分の作風の追及を大切にされますが、また、そのあたりが工芸作家にとっては、一番難所で、技術の練磨と「自分独自の匂い」を追求する日々は、ご苦労の多いことと、感じております。そのような意味合いから、松本さんも、日々、ご自分との格闘の連続でしょう?

 「師の匂い」或いは、伝統と言い換えても良いかもしれませんが、それが、時に重荷となるようなことも、弟子制度や踏襲というものが存在し、伝統文化の存在する日本においては、工芸に限らず、芸道の世界では、多々ある事かと思われます。

 作家自身のあり方によっては、一つの宿命のような意味合いを持ってくるのかもしれないと、感ぜざるをえません。

 父小玕齋もかつて通った道でもあります。

 少なからず、「飯塚系の匂い」を醸し出そうと模索中の松本破風さんの竹の世界を多くの方にご覧頂ければ、と願っております。

 どうやら、そろそろ林檎ジャムも程よく煮えてきたようです。筆を置き、甘い匂いごとそっくり、瓶詰めの作業を始めようと思います。

 まだまだ寒さの続く毎日ですが、皆さま、どうぞ風邪など召しませんよう・・・

  
 「松本破風・竹工芸展」 2011年2月3日(木)〜2月12日(土)
             於 銀座一穂堂サロン http:// www.planup.co.jp  
               中央区銀座1−8−17 伊勢伊ビル3F
               11:00〜19:00(月休) Tel:03-5159-0599
posted by mari at 16:10 | 2011年